森光子さんを悼む
2012-11-20
東京は下町育ちのせいか、銭湯の経験は豊富な方だ。物心つかない頃から、母か祖母と「女湯」に行っていた。銭湯では番台に女将さんが座り、その他にも中年の女性が控えていて、幼い子供などの面倒を見てくれていたと記憶する。夏などはあせも防止用の白い液体状の薬を、風呂上がりに塗ってくれたりもした。定番の「珈琲牛乳」を冷蔵庫から出して蓋を針状の道具で開けてくれてもいた。母や祖母以外の人に身支度を手伝ってもらうという貴重な記憶であるように回想できる。小学校に入学してからは、一人で「男湯」に行った。父は仕事に忙しく、僕を連れて銭湯に行く余裕などなかったからだ。しかし、その一人で「男湯」に行く心境は、なぜか“大人”になった気分であった。それ以降、「女湯」は禁断の場となった。その「女湯」の脱衣場をドラマ内で露わに映し出したのが「時間ですよ」(TBS系列ドラマ)であった。一定の年齢になっていた僕は、幼少時の「女湯」体験がありながらも、家族とともにその映像を見ることが憚られるほどの大胆さがあった。このドラマの「お母さん」役が森光子さんであった。
森さんは昭和の時代に、「日本の母」を演じ続けて来た。穏やかな笑顔、自然な演技、時として厳しい母の顔も見せた。「欽ちゃんのどこまでやるの」(テレビ朝日系お笑い番組)などにも出演し、コントも違和感なく生身で演じていた。森さんを追悼した番組が、あることばを紹介していた。
「何をやっても自分の肥やしにしていく」
芝居のみならず、ワイドショー司会などにも積極的に取り組んだ森さんの人生哲学が垣間見える。名優ほど“言い訳”をしない典型的な例であっただろう。また親好の深かった黒柳徹子さんの「徹子の部屋」では、次のようなことばも遺していた。
「芝居は生きています。お相手によって全て変わる。今まで100%上手くいったことは1度もないのです。」
演じる中で見せる温かい笑顔の陰で、向上心を持ったどれほどの努力を積み重ねていたことか。病床においても復帰を意図し台本を読み続けていたという。まさに名優は一日にしてならず、である。
森光子さんのご冥福を心よりお祈りする。
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