どの道を選ぶのが「愚か」なことなのか
2012-10-25
原子力規制委員会が全国16カ所の原発でフクシマ(第一)でのように深刻な事故が起きた場合の、放射能拡散予測を公表した。新聞にもWeb上にも、各地域の拡散予測図が掲載され、改めて放射能汚染の恐怖が可視化された。これは予測として規制委員会も「目安に過ぎない」(状況により実態と異なる)とし、「防災計画の整備」へ向けた手段という立場のようであるが、その前提自体を疑いたくもなる。地震・津波のような天災に限らず、あらゆる事故の可能性が否定できない状況で、広範な地域が汚染されてしまう「予測」を見て、僕たちがこの小さな国土に生きている中で、果たしてこの“魔物”を維持していく道を選択する発想そのものが、甚だ「愚か」な行為だと思えて来る。予測の中に、日本で最大数(7基)の原子炉を保有する「柏崎刈羽原発」もあった。その予測地図を見て唖然とした。母の故郷である市町がすっぽりと高度汚染地域に予測されている。そこには母の従兄弟等の親戚が暮らし、祖父母の墓もある。つい先日も墓参に訪れて、その市町の長閑ながらも豊かな米作りの様子などを眺めてきたばかりだ。「柏崎刈羽」が近いことは意識していたものの、ここまで可視化して高度汚染の予想がなされると、その存在は“魔物”以外の何物でもない。自らの身になって初めてこうした危険の恐怖を改めて実感するのだが、既にフクシマでは多くの方々が故郷を失っている。
“ヒト”が自ら開発した技術で、“ヒト”が立ち入ることができない土地を生み出してしまう。その汚染への対応感覚も人それぞれに「格差」が生じているが、確実にヒトの身体を蝕むはずだ。海外からの汚染物伝来(病原菌等を含む)に関しては、異常なまでに警戒感の強い国民は、なぜか国内での汚染に無頓着だ。26年前には、「雨に濡れてはならぬ」とチェルノブイリ由来の汚染を警戒して語られたことばは、今は語られることもない。その矛盾に多くの人が気付いていないような気もする。
ある御方がフクシマ第一を視察したという報道を読んだ。「大きな反省点はあるが、その事故をもって人間が開発した現代的な新しい技術体系を放り出すのは愚かだ」と発言したという。だが、真に「愚か」なのはどの道を選択することであろうか。元来、我欲に満ちた「人間が開発した」、その危険性を棚に上げて目を瞑る傲慢さにより進められて来た「現代的な新しい技術体系」を、保持し続けようとする反省の無さこそ「愚か」なのではないだろうか。前述の発言内容を注意して読んでみると「放り出す」という語彙が目につく。この高度汚染を引き起こす「技術体系」は決して簡単に「放り出せる」ものではない。既に限りない年数と土壌・海洋汚染を前提としなければ収束さえできない“魔物”技術なのだ。その実に乱暴で安易な発想が、更なる災禍への入り口なのである。一度踏み出したものから撤退することを「愚か」とするならば、僕たちは過去の犠牲から何を学んだということになるのだろう。
「過而不改、是謂過矣。(過ちて改めざる、是れを過ちと謂う)」『論語』
「人間が学んで来た過去の犠牲の上に成り立つ
人文体系を放り出すのは愚かだ。」
「愚か」の尺度が問われている。
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