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巷間に政談は生きているか

2012-10-24
アメリカ大統領選前にして、TV討論会の報道等が眼に入る。公の場でテーマを決めて大統領候補者が論戦を繰り広げる。その議論によって選挙情勢がどう動くかなどと、候補者の資質や考え方が公になる。この様子は、もちろんTVで全米に放映されているのだが、その様子をBarのような店に集まり大勢で見守るという“企画”も為されるという。それを“ウォッチパーティ”と呼ぶらしい。人々が集い次代の政治リーダーの論戦を見守り、当然ながら「政談」をその場で展開しているに違いない。自ずと政治に関心がもてる社会的な風潮が米国には存在する。

これに引き換え日本はどうだろうか?巷間で政談は生きているのか?甚だ疑問である。「床屋政談」とか「床屋政治家」という語彙がある。「床屋で交わされる素人の政治談義」という意味で、そうした話題を語る人を「政治家」と呼ぶ。昨今では、本職の政治家の議論があまりにも稚拙で、それを揶揄して「床屋政談(レベル)だ」と否定的な場面で使用されることも多いと聞く。だがしかし、本来の「床屋政談」には、庶民同士で政治への関心を喚起する機能があったはずだ。だが、床屋さんを始め巷間の場で「政談」を語るべきではないという風潮が大きくなってはいないだろうか。

政治への無関心は、身近にいえば他人への無関心を増幅させているようにも思う。公共の場での“小さな会話”の減少。「すいません」「ありがとう」「ちょっと・・・」といった些細なことばが消え始めているという話を、様々な方面から耳にする。無言を決め込んで自分の占有権に関しては頑な態度で主張し保有し続けようとする利己的な行動。電車内でも飲食店内でもそんな光景が目立つようになっている。自分さえよければ、隣人も政治もどうでもいい。ただ己の権利だけを絶対的に護ろうとする無関心な輩が、あまりにも多いのではないだろうか。

政治も文化もスポーツについても、例え意見が対立したとしても語り合う環境。そんな議論の温床が日本にはない。元来、相手の意図は「察する」ことをよしとする文化が波及しているのだが、それが拡大し語ることがタブー視される風潮となる。それにも関わらず、各人が“無言の主張”をするのであるから、社会が円滑に巡航するわけはない。意見をいうことを否定的に考えることの原因は何か?僕たち教育関係者も、改めて熟考しなければならないだろう。

せめて開放的な「床屋政談」が盛んになればいい。
オリンピックや日本代表戦となれば多くの人々が集い
一同に試合をTV観戦することはある。

そんな国への思いを
少々政治への関心に向けてもいいのではないだろうか。
頽廃的な政治のあり方は、政治家だけの責任ではない。
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