虚飾の構造
2012-10-23
事実をどう捉えて伝えるか。伝えるという行為が行われる場合、必ずその“事実”を捉えた人の主観が伴う。ある現象を希有なことだという主観があれば、大仰に伝えることになるが、通常のことであるという主観があれば、冷静に伝えることになる。物事を見る尺度は、人それぞれ千差万別である。そんなことは当然と言えば当然なのだが、時にある一定の主観が喧伝されると、イメージとして固定するという怖さがあるということにも気付く。野球のようなスポーツを観る眼は、実に主観的である。その主観が許されるからこそ、巷間の人々は全て“評論家”になり得る。呑み屋・床屋・食堂など至る所で野球采配への批評が展開される。“批評”といえば聞こえはいいが、それは主観に満ちた、その人の感情により生じた“感想”である。巷間でこうした感想が飛び交うのはよいことではあるが、報道する立場が同程度の主観的な伝え方をしたとき、実に虚飾に溢れたものを見てしまったような気になる。
贔屓チームの選手の「守備が上手い」と評する人がいる。そのチームを好きではない僕は、決してその選手の「守備が上手い」と思ったことは一度もない。野球をそれなりに深く知っている人が、なぜ僕の捉え方と違うのかと不思議に思っていた。珍しく日本の野球中継を観ていると、その理由が腑に落ちた。その選手の守備を報道する側が、「ファインプレー」などと豪語して伝えるのだ。僕の眼からすると、普通の打球処理に過ぎない。むしろその選手の足の出が遅い為に、「やっと捕った」ように見えてしまう。それを絶叫のような語り口で伝える実況のあり方に対して、甚だしい違和感を覚えた。選手は、実況中継者の主観にも護られているのだ。
こうした虚飾が横行すると、結果的にその競技を観る人が離れて行ってしまう。そして日本野球全体のレベルが退行する。この多様性の時代にあって、品性のない虚飾は時代錯誤甚だしいと感じざるを得ない。もはや僕たちは、「真実とは何か」という意識を保ち、「現実」を見つめようとする意志を持っている。再びやって来る第3回WBCを前にして、日本の野球ファンの質が試されている気もする。
ある意味で単純な虚飾の構造。
いかに主観を排して物事を見つめるか。
贔屓チームであるからこそ自己批判的視点を持てるか否か。
MLBの球場を訪れた時に一番感じるのは、
贔屓し応援しているチームの選手にファンが厳しい視線を持っていることだ。
それでこそ真のファンなのではないだろうか。
社会の様々な場所に存在する虚飾の構造を
僕たちは理性をもって見抜かなければならない。
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