「演じる」とは「訴える」こと
2010-01-09
8日(金)松の内が明けた。「門松が取れる」という言い方も言語の中だけになってきた印象もあるが、それでも「お正月」というものが意識され演出されるのは、何ともよいものだ。時間に節目を付けるということは、「公と私」、「晴と褻」を意識することでもあり、社会的な時間の中で、個人が何かを「演じる」という構図として捉えることもできるだろう。
これまで早朝からのデスクワークになかなか集中できなかったが、この日はすっきりと目覚める。早めに出社しなければならないという意識がそうさせるのも確かだが、どこか社会と接していこうとすることが、自発的に「演じる」行為をもたらしていく。
出社すると、年頭に当たり顧客にぜひとも訴えたいことが山積。特に気持ちが揺らいでしまっている人々に対しては、熱くなおかつ冷静にこれからの精神的な支えとなるような話が必要になる。これは、ある意味で「演じる」ということになるのであるが、だからといって「虚構」を述べているわけではない。相手の気持ちに染み渡るようにするには、「訴える」と同義な「演じる」が必要になるのだ。
今読んでいる『和歌とは何か』(渡部泰明氏著・岩波新書)には、「和歌は演じている」という視点から、そのレトリックや場の問題などが論じられている。日本の伝統的な和歌が、なぜ長きにわたり文学の中心に君臨してきたかということを、現代的な視点から理解するという意味で、明快な好著である。「和歌(うた)」はもともと「訴える」という語源から発生したことを考えると、人に何かを「訴える」には「演じる」という行為に繋がるのかもしれない。
そうこう考えているうちに、山積した仕事を片付ける。結局、だいぶ遅くまで職場にいることになった。松の内後にしては、ハードな一日。夕食を用意する気力もなくなり、いつもの中華料理店へ。自身が料理人を演じなくとも、素材も味も内容も立派に「演じた」温かい料理が出てくる。この「演技」が、自身を魅了して放さない「訴え」を持っているのも確かだ。
3日にジムへ行ったきりだったので、時間が遅くとも筋トレとサウナへ向かう。運動するということは、筋肉を「演じさせること」でもあり、運動不足を「訴えていた」身体が、活性化されるようだ。活動するという意味を様々に換言し、自身の生活にも新たな彩りを加えていきたい。
十分な仕事とトレーニングの後、「熟睡」という夜の幕が開いていた。
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