講演「古代和歌における定型と表現」覚書
2012-10-14
和歌文学会大会にて、東京大学名誉教授の鈴木日出男先生の講演を拝聴した。「古代和歌における心物対応構造」といった論などは、僕が学生時代に大きな影響を受けた論文でもある。鈴木先生の主要な研究成果は、『古代和歌史論』(東京大学出版会)に詳しい。和歌が表現する景物と抒情との関係は、やはり和歌を読む上で基本中の基本ともいえる。今回の講演内容で、僕が個人的に気になったのは、和歌の類句性を考える上で五音節・七音節の複合により構成される韻律に注目していたことだ。「五+七」「五+五」「七+七」といった音の結合が「定型」を生む基本単位となる。それが更に連接することで多様な和歌表現の文脈ができる。こうした音数律単位そのものに、どのような背景があるかといった文化人類学的な考察が為された参考文献も紹介されていたが、この点については機を改めて考えることする。
ここで鈴木先生のご講演内容から覚書としておきたいのは、「枕詞」の問題である。「五音」の枕詞が、連接する「被枕」とどのような関係性で結ばれて行くか。「被枕」にはなぜ地名が多いかなどの問題意識。一般論として、学校教育の中で扱う際に「枕詞」を定義すると、「特別な意味はなく(訳出の必要もなく)、語調を整えるもの」といったことになろうか。現代語訳中心主義的な古典教育においては、「意味(訳出)」に偏重しているという批評を提起したくなる。僕なりに角度を変えて述べるならば、「和歌とは、解釈はできるが現代語訳はできない」というのが妥当なのではないかと考えたくなるのである。「枕詞」を無視すれば、和歌を“読んだ“ことにならないのではないだろうか。「枕詞+被枕」の関係性が生み出す微妙な音数律的な緊張関係こそ、和歌の本質なのではないだろうかと思うのである。
鈴木先生は、折口信夫の節として、「「枕詞」と「被枕」は同じもので、角度を変えて言い換えただけ。」を紹介していた。その上で、御自身の考え方として、「「被枕」が持ち得る「畏怖・神秘・崇高・偉大」といった性質を、「枕詞」が導き出すのではないか」といった考え方を示していた。これを現代語訳で表現するのは至難の技といえるかもしれない。やはり和歌は原文のまま、音の響きを声に出して享受しなければ理解できないものがあるということになるだろう。
鈴木先生のご講演を伺い、学生時代に和歌を読むことを志した頃のことを思い出した。原点に回帰することで、改めて自らの問題意識を自覚できたようでもある。
やはり和歌の響きは美しい。
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