鍵への憂鬱なる意識
2012-10-11
出掛ける時に家の鍵を掛けたか否か?“無意識に”とはいえないまでも、明らかな記憶が曖昧なほど施錠は習慣化している。こんな話題を提供すると、御自身が「今日はどうであるか」心配になる方もいるのではないだろうか。そんな意味で、僕の場合は敢えて意識化するために、鍵が閉まる際の音とか、ドアを引っ張っても開かない音を記憶に刻むようにしている。生活の中に埋没させるには、あまりにも重要な行為が施錠である。日常的に仕事で使用している鞄に、小さな南京錠が付いている。海外旅行で鞄ごと預ける際には重宝する。また比較的人の出入りが多い大学の講師室などにおいて、“念のため”使用することがある。ある種の貴重品自己管理である。その南京錠を使用する意識が、前述したように曖昧化したらどうなるか。そんなことを考えさせられる経験をした。
授業前、確かに南京錠を一時解錠し鞄のジッパー同士を合わせて施錠した。鍵はズボンのポケットに入れるのが常である。何となくポケットに手を入れると、鍵の感触が確かめられる感覚もやや“習慣化”している。授業を終えて講師室に戻る。するとポケットの中に鍵の感触がない。一瞬戸惑い、授業開始前からの行動を振り返る。これは落としたに違いないと判断し、即座に使用した教室に引き返した。幸い次の時間帯は授業がなく、学生有志が何らかの相談をしていた。教壇周辺や授業中に動いたあたりを隈なく探すが、鍵の形跡はない。そして、教室から講師室に至るまでのエレベーター内や廊下に至り、鍵の追跡を続行した。既に拾得されているのではと考えて学生課事務室の「落とし物係」まで出向くが、そこにも保管されていない。暫く時間を費やしたが、もう発見は無理だと判断し、帰宅することにした。不幸中の幸いだったのは、PASMOと家の鍵は、鞄のサイドポケットに入っていたこと。教材をケースに入れて小脇に抱え、大学を後にした。
帰宅してスペアキーで鞄を開けた。すると何と、南京錠の鍵が、鞄内の所定の位置にあった。つまり南京錠を一時解錠し、鍵を鞄内に戻した上で施錠してしまっていたのだ。何とも情けなくもあり、鍵が発見された喜びもあり、複雑な心境になった。その鍵束には、他校のロッカーキーなども付いていたので、そのスペアを事務室に行っていただかないといけないなどと想像もしていたのだが、全て徒労となる妄想となった。ある意味で、南京錠の“怖さ”ともいえる出来事であった。
以前に高校教員をしていた頃、修学旅行で出発前日に全ての生徒が荷物を学校に持ち込み、旅行業者に委託し配送するという段取りがあった。ある生徒が、スーツケースの荷物を預けたのはいいが、旅行先に鍵を持って来るのを忘れるという出来事があった。仕方なく、解錠専門の業者を依頼しスーツケースを有料で解錠してもらったということを思い出した。状況は少し違うが、よかれと思って使用した鍵に、自らが困惑する出来事には変わらない。
構造上、南京錠は自らの鍵を封印する恐ろしい力を所有している。
数字合わせ式の鍵ならば、起こり得ない事態。
重要ゆえに「鍵」への意識は、何とも憂鬱である。
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