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積み上げて来た煉瓦〜日中国交正常化40年に思う

2012-09-30
9月29日をもって日中国交正常化40周年という記念すべき節目を迎えた。しかし、現状は周知の通り、祝賀ムードは愚かこの40年間で一番険悪な事態に直面している。尖閣諸島をめぐる相互の主張は相容れず、国連での首脳演説を聞いても真っ向から対立し、非難の応酬という様相で固着しているように見える。こうした国家の対応を目に耳にして、市民が感情的に立腹し中国では反日デモが巻き起こる。“デモ”とは呼んでいても、日本企業や店舗が襲撃されたりして一部の市民が暴徒化している。この様子を見てたぶん僕たち日本人は、“信じ難い”という感覚のズレを感じざるを得ないであろう。「相互理解」などという域からは、かなりかけ離れた状況を現実に見聞する。だが、ではなぜあれほどの「反日感情」が渦巻くのか、それを今こそ冷静に考えてみる立場でありたいと、僕自身は願っている。違和感を覚えた時に、立腹し対峙するのはいとも簡単だ。だが、その違和感を契機に思考する“文化人”でありたいと、この事態を前に痛切に感じている。

村上春樹氏が朝日新聞への寄稿で、この二十年ほどの東アジアにおける「文化圏」の成立を指摘し、「このような好ましい状況を出現させるために、長い歳月にわたり多くの人々が心血を注いできた。」と述べた。そして「文化の交換は「我々はたとえ話す言葉が違っても、基本的には感情や感動を共有しあえる人間同士なのだ」という認識をもたらすことをひとつの重要な目的にしている。それはいわば、国境を越えて魂が行き来する道筋なのだ。」という点を強調し、各方面からの反響も大きかった。さすがは村上春樹である。今回の事態によって、「地道な達成を大きく破壊してしまうことを、一人のアジアの作家として、また一人の日本人として、僕は恐れる。」と憂いている。これこそ“作家”として“文化人”として全うな感覚ということができるだろう。文化の交流を道筋にした「多くの人々の心血」を無視して、喧嘩腰で吠え、市民を煽り、暴論をもとに突飛な行動を実行させ、事態収拾の糸を錯綜させるような感覚を、僕たちは慎重に憂えなければならない。間違っても仮に、そうした姿勢を英雄視する風潮があるならば、それは歴史の過ちに申し開きができないだろう。


大学学部の第二外国語で中国語に出逢い、漢詩を中国語で音読する美しさに魅了された。日本の古典和歌は中国文学からどれほどの影響を受けているのかという観点から卒論を書いた。その後、何度も中国を訪問し史蹟(詩蹟)を巡りその文化の深度をこの目に焼き付けた。社会人として大学院受験の際、外国語は中国語を選択した。受験勉強の為に日中友好を旨とする中国語学校に約2年間通った。北京大学出身で中日英の比較言語を専攻する、厳しい中国人の先生に教わった。授業中に睡魔に襲われると容赦なく立たされ、また勉強が不十分だと厳しく叱咤激励された。たぶん、社会人相手の講座で、日本人教師ならこれほど厳しく生徒に対応はしないだろう。彼女は、“老師”(教師)として妥協がなかった。その結果、僕は大学院入試を一般受験で突破することができた。まさに言語を通じて文化の機微に触れて、違和感を覚えたところから自らの心血を注いで踏ん張り、新しい人生を切り開くことができた体験である。

その後も、平安朝文学を比較文学の立場から研究し大学院を修了するに至る。大学院の研究室へ来訪した中国人の日本文学研究者とも親しく交流した。日本の高等学校でどのように古典を教えているかを実地で見たいという希望で、僕が勤務する高等学校の授業に招待したこともあった。和歌について高校1年生がプレゼンする授業を見学していただき、中国人の彼女からコメントもいただいた。古典詩歌を媒介として日中の教育についても意見交換ができた。

「音読・朗読」についてもまた然り。東京外国語大学大学院に留学中であった日本古典研究者とも盛んに交流した。彼は、古典詩歌の研究者であったが、同時に「漢詩朗誦家」でもあった。「長恨歌」など中国古典詩の数々を、実に見事に朗誦した。僕が責任者をしている「朗読の理論と実践の会」では、彼を招いて、「漢詩朗誦を考える」のシンポジウムを開催した。そこでも彼の朗誦を何篇か実演してもらった。彼が中国語で朗誦した漢詩を、僕が訓読(日本語)で朗読する構成で実演した。二人の声による交互の朗読の響きは、まさに日中友好という概念を、文学を媒介として眼前に実現させるかのようであった。これこそ「国境を越えて魂が行き来する道筋」なのであった。

大学の教え子の一人が、3年間勤務した会社を退社し1年間の語学研修の為、この8月から北京に留学した。彼女は自称“オタク”というが、サブカルを通じて日中の架け橋になろうとする、次世代の「魂が行き来する道筋」に踏み出そうとしている。それでも北京での日常を綴った彼女のブログでは、反日デモの喧噪の中で、肩身の狭い思いをしている。他者に問われて「私は韓国人です」と答える日々であるともいう。それでも大学での中国人の友人たちからは、「大丈夫か?」といった心配する声が届けられるという。そうした環境に身を置き、「東アジア文化圏」で新しい「道筋」を模索している一人の若者がいることを、日本に居て何でも言い放てる僕たちは、決して忘れてはいけない。

僕自身は、決して大きな煉瓦を積み上げた訳ではない。
だが、多くの日中双方の人々が「友好」を希望して、
無数の「文化の煉瓦」を地道に努力して積み上げて来たのだ。
そして今も積み上げようとしている。

その積み上げた煉瓦を、村上氏のいう一時の「安酒の酔い」で、
「粗暴に単純化された論理で反復的に」破壊してはならない。
酒場でそんな「安酒」に酔った人物がいれば、
すぐさま「愚痴な人物」と疎まれるはずである。

僕たちは積み上げた煉瓦を守る為に、
文化人としての“理性”を決して忘れてはならない。
それでこそ、グラス一杯がたとえ高額であっても
至高の価値ある「文化の酒」が味わえるのである。

「安酒」のガブ呑みは、どんなことがあろうとも御免である。


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