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「眼鏡」を意識する

2012-09-21
いつぞやだいぶ以前に、「なぜ眼鏡も着替えないの?」というCMがあったのを思い出した。時と場所、用途に応じて眼鏡をかけ替えようという販促効果を狙ったコピーである。確かに無頓着であれば、どんな場面でも同じ眼鏡で過ごしてしまうことも多い。だが、仕事の服装には適すると思う眼鏡を、プライベートな場面においてカジュアルな服装で掛けて撮った自分の写真を見たとき、信じ難いほどの違和感を覚えたことがある。せめて仕事と私的な時間ぐらいは掛け替えてもいいのではないかと思うようになった。

眼鏡というと、もちろん視力矯正の為の実用性を伴う道具である。同時に「おめがね」といった語彙で使用すると、「物の形・性質・よしあしなどを見分ける尺度としての目」(『新明解国語辞典』第6版)という意味にもなる。俗に「色眼鏡で見る」といった用例で使用する場合である。こうした意味での「眼鏡」は、誰彼に関わらず無意識のうちに掛けているものである。むしろ意識しようとする方が難しいのかもしれない。知らず知らずのうちに、一定の「眼鏡」を使用しているのが一般的であろう。

日本人の性質を鋭く批評したルース・ベネディクト『菊と刀 日本文化の型』(講談社学術文庫所収)に次のような一節がある。
「ある国民がそれを通して生活を眺めるレンズは、他の国民が用いるレンズと異なっている。われわれがものを見る時に必ずそれを通してする眼球を意識することは困難である。」
(中略)
「眼鏡の場合に、眼鏡を掛けている当人がレンズの処方を知っているなどとは、最初からわれわれが期待しないように、われわれは国民が自らの世界観を分析することに期待をかけるわけにはいかない。もし眼鏡のことについて知りたければ、われわれは眼医者を養成し、眼医者の所へ行きさえすれば、どんなレンズでもちゃんと処方を書いてくれる。きっとそのうちにわれわれは、社会科学者の仕事こそ、現代世界の諸国民において、この眼医者と同じ仕事を行うものである、ということを認めるようになるだろう。」



ある「文化の型」に中で生活している以上、何らかの「眼鏡」を必然的に掛けてしまっている。その眼鏡を外見的に意識できたとしても、その処方までを思考することはなかなか難しい。日常生活においても、ある人が眼鏡を掛けている場合、そのデザインや顔全体の均衡性などに意識が行き、どんな処方で、どんな目的で使用しているか等は考えることは少ない。それが「眼鏡」の“第二の意味”となった場合には、尚更であると言わざるを得ない。

「文化」は、広く国民全体を言う場合もあれば、個々人の中での独自の「文化」をさす場合もある。その個別の文化を、いつしか僕たちはある「眼鏡」で見てしまっていないだろうか。その「眼鏡」の処方が偏向すればするほど、「いじめ」などの「他者排斥」の意識に発展する要因にもなる。今一度、自らがどんな処方の「眼鏡」を使用しているかを、十分に思考すべきではないだろうか。

そしてまた、状況に応じて柔軟に
「眼鏡」を掛け替えることも必要であるかもしれない。

一旦は、自分の観念の枠外に出て
自らの「眼鏡」の処方を意識してみよう。
そこに恐ろしい程の発見があったりするものだ。

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