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「予定調和」というけれど

2012-09-20
日常生活が慢性化すると、必然的に「予定」の連続を消化する日々となる。あらかじめ決められたことを、決められたままに。そのうち慢性化の意識も稀薄になり、流れに任せた日常がただ水の流れのように過ぎていく。そして「予定」が順調に、あくまで順調に過ぎゆくことが「本来の目的」かのような錯覚に陥る場合もある。自己完結のような「予定調和」のみを求めて、本当に自らが歩むべき道を見失うことも多い。

「予定調和」とは元来、「ライプニッツの哲学で、宇宙は互いに独立したモナドからなり、宇宙が統一的な秩序状態にあるのは、神によってモナド間に調和関係が生じるようにあらかじめ定められているからであるという学説で「モナド論」という。」と説明されるのが一般的のようだ。それを小説・映画・政治・経済等の諸分野に当て嵌め、予想できる流れで決まった結果となることを言う場合に用いられているようである。したがって型通りで新規な発見のないものを“揶揄”していう意味合いで使用されることも多いように思う。

この「予定調和」への揶揄を含んだ受け止め方は、むしろ「調和した日常を望んでいる」とも解せるであろう。通勤電車が何らかの影響で遅延すれば、その原因の内実はともあれ、次第に「怒り」の感情が涌き上がり、自らの感情でストレスを増産する結果となる。小説や映画が「予定調和」であったと批判する者のことばの背後には、あくまで虚構の世界であるから「調和」が崩壊してしまうことを望む、空想的世界(現実乖離的)としての思考が見え隠れする。映画を観て「予定調和」を批判した者が、翌朝の通勤電車においては、あくまで「予定調和」で動くことを全面的に望んでいるのに違いないのである。

日本の公共交通機関ほど、「予定調和」に厳格なものはないと思う。それは先述した通勤電車はもちろん、日常性を超越している筈の速度を誇る新幹線や、些細な技術ミスさえ許されない航空機の運航に至るまで、あくまで「時間通り」の運航が当然のことのように機能している。この緻密さ厳格さ堅実さというのは、日本社会の大きな利点ということもできよう。精密機械が寸分の狂いもなく動いていく「調和」があらゆることの目的ともなっているようにも見える。

海外でより個人的に旅行をした経験のある方ならおわかりだと思うが、特に飛行機の遅延は日常的だ。過去のフライト体験を見渡しても、遅延を体験したことは多数ある。これもまた各個人の“運命”かと感じることも多いが、遅延に遅延が重なり接続便の予定を次々に変更していかねばならない体験が何度もあった。日本的な“精密”な感覚でいると、耐え難い状況にいとも簡単に巡り会えるのだ。よって最近では接続便がある場合は、“日本的感覚”では考えられないほどの時間的余裕を持って便の予約をするようにしている。

抑々、人生には突発的な出逢いから何かが動き出すことも多い。
その突発性を受け入れるか否か。
「予定」の流ればかりを優先すれば見過ごしてしまうこと。
そこにこの上なく大切な邂逅があるかもしれない。
時に遅延し、回り道をしてこそ見えて来るものがある。

ゆえに、日常性の枠外から自分を見つめる時間も必要なのである。
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