自分を拓く異分野の視点
2012-09-05
大学院修士時代の選択共通科目担当の先生を囲んで、久しぶりに酒宴の場を設けた。「選択共通」とは、専攻に関わらず履修しなければならない科目。履修者も、教育学・心理学・社会科教育等々様々な専攻の方々がいた。中でも、僕と同じように現職教員として履修していた2名の“同期生”とは、その後も長々とお付き合いいただいている。そして各自が今やそれぞれ新たな道を歩んでいる。昨夜も枡酒を酌み交わしながら、その授業の意味を皆で再考したような話になった。先生はよく「授業は出逢いの場である」と語っていた。様々な専攻の者が、「発達障害論」を学び、そして今までなかった新たな視点を得る。「福祉」のあり方の深淵を学ぶことで、教育・社会全般に目を向ける。そして授業とその後の様々な語り合いによって、自分の中の固着した観念を破壊する。こうした“出逢い”が新たな自己の考え方を拓いていくのである。
言わずもがな専攻研究は大切である。だがしかし、一つの穴の中で微細な追究をしていると、地上世界で何が起こっているかが見えなくなる。社会に目を開き、自らの研究がどのように貢献できるのかを知る必要もある。この日もまた、「呑みにケーション」全開で、各自がそれぞれの“今”を披瀝した。その刺激の強さに、新たな意志が起動する。
この仲間うちでは、先生の授業を「ゼミ」と呼んでいた。もちろん大学院の科目としては正式な“ゼミ”ではない。たぶん多くの履修者が、「修了要件の為に」通り過ぎる科目なのかもしれない。しかし、「ゼミ」は、元来ラテン語の「苗床」を意味している語である。社会の風雪にも耐える「苗」を育てる場だ。僕たちは、先生の授業での刺激により今や多様な「稲」を実らせている。今後も、この「ゼミ会」を定期的に開きたい思いである。
僕らの時代からすると、大学院も様変わりして来た。
だからこそ、僕らの「出逢い」のような経験を語りたい。
それは、単なる“過去のこと”なのではなく。
今も継続する「学びの場」であるということを。
こうした人々と「出逢う」ことにこそ意義があるのだ。
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