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「文七元結」〜花之雲右團治一座公演

2012-09-03
朗読発表会などで学生の演目内容を進める際に、たいてい「どこまで演じるか」を検討することがある。語ることで届ける声。その補助手段として「演じる」部分を含めたくなるのもわからないではない。しかし、それによって語ることが疎かにされてしまっては、元も子もない。では、有効な語りができれば、「演じる」部分が増えて行ってもよいか。その場の聴衆が、どのように受け止めるかの問題もあろうが、なかなかその境界は難しいものがある。

国立演芸場で花之雲右團治一座公演「文七元結」を鑑賞した。言わずと知れた三遊亭圓朝の名作人情噺を芝居仕立てにしたものである。噺家さんの芝居を「鹿芝居」というが、今回は講談師・俳優さんなどを含めたコラボな出演者たち。その語りのプロたちが、一つの噺を芝居としてどう表現するか、興味が深かった。

小刻みな幕間・わかりやすい台詞・テンポのよい展開により一つの落語世界を存分に表現していたといえるだろう。噺としては登場人物の多い大ネタ人情噺であるが、それだけに芝居にするには十分な価値がある作品である。左官屋長兵衛がどれほど博打にのめり込み借金の山があるか、それを見かねた娘お久が自ら吉原へ身を売る。そこで女将の温情で手にした大金を、長兵衛がどうしてしまうのか。その随所に笑いがありながら、親娘や見ず知らずの男との間で人情の機微が湧き上る。

これほど個性的な出演者が揃ったことで、様々な笑いの要素も膨らんだ。それだけに、落語として効果的に演じるには、実に難しいのではないかということも感じる。動作は最低限の所作であるにしても、落語の中で登場人物のあり様になり切って「演じる」要素が必須であることを窺わせる。表情や台詞の語り口には、この人情噺ならではの世界があるだろう。

演じて語ることで届く声。
語りが演じることで磨かれていく。
表情一つの微妙な変化に、届く声となる微細な要素が見え隠れする。

それにしても、落語世界の人情噺のよさを改めて堪能した。
自分自身の利のみを執拗に求める人が氾濫する現代のニッポン。
博打はどうかと思うが、江戸っ子長兵衛の心意気を今こそ味わいたい。

公演は本日(9月3日)も国立演芸場にて。


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