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「罵倒と否定」の前に

2012-08-31
国会の空転、近隣諸国との相互理解なき関係、原発政策の行方、東日本大震災からの復興等々、国内外の状況は何かと歯がゆいことも多く不安の方が先立つ社会情勢である。政治への不信は拡大し、急進的な改革を断行するかのような喧伝を行う者に注目が集まる。同時に、この不安な社会の背後で「罵倒と否定」のことばが溢れている。Web上の匿名発言はもとより、公共の場に於いての理性なき要求や暴力へとエスカレートしているとも聞く。だがしかし、「罵倒と否定」の蔓延は社会にとって決して健全とはいえず、相互崩壊を誘発し自滅の方向に進む危険性を孕んでいるだろう。

朝日新聞8月30日付「論壇時評」で、高橋源一郎氏が太田昌国氏の評を引いて「そこは「相手を罵倒することも否定することもな」い場所だ。そして、そんな場所を作ることだけが、「罵倒と否定」の社会を変えられるのである。」と結んでいる。「そこ」・「場所」とは、「金曜デモ」のことを指し、「日常生活では味わうことのできない時『解放感』」を感じると太田氏は述べ、更に「楽しさや解放感がある時の、人間の学び方は、広い、深い、早い」としている。また、柄谷行人氏の「人がデモをする社会」(『世界』9月号)から、「デモで社会は変わる、なぜならデモをすることで、『人がデモをする社会』に変わるからだ」という発言を引用し、(柄谷への)質問者の想定以上に「「本質的」な答えを返したのだ。」と高橋氏は評している。「デモでは変わらない」、「選挙でしか社会は変わらない」と思っている(柄谷への)質問者に対して、その前提を転倒させたことばにこそ、社会を変える端緒が見えるということになるだろう。

デモとは、概して集団が徒党を組んでというイメージを持ちがちであるが、決してそうではない面もある。細部の思考は多様であっても、一つの方向性に対して考える起点とする。それが現在のデモのあり方ではないかと感じる節がある。「AかBか」の二項対立しか行き場のない方向性の提示は、「わかりやすさ」という単純化の中に市民を落とし込み、多様で個性的な意見の喚起を拒絶する。これこそ選挙で大勝する勢力が利用する方法であり、市民はその術中に嵌り込んではならないはずだ。哀しいかな、現状の代議制民主主義では、こうした「○」か「×」かを問うような構造が否めず、社会を変える契機にはなりにくい。それは、この10余年の歴史を見れば明らかであり、だからこそこれほどの政治不信が渦巻いているという現状を、個人個人が自覚する必要があるように思う。

高橋氏は先に述べた「論壇時評」で、こう強調する。

「国家と国民は同じ声を持つ必要はないし、そんな義務もない。誰でも「国民」である前に「人間」なのだ。そして「人間」はみんな違う考えを持っている。同じ考えを持つものしか「国民」になれない国は「ロボットの国」(ロボットに失礼だが)だけだーというのがぼくの「ふつう」の感覚だ。」


「罵倒と否定」その反対側で、「無関心と無言」を決め込む輩もいる。

僕たちは広い視野で学ぶ場を身近に設け、
個々の多様さを見つめ合うことから始めるべきであろう。
「社会」を構成する「一人」として「変える」という意識を持つことが大切だ。

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