「絶対的価値体」との近接度
2010-01-04
内田樹氏の『日本辺境論』(「他国との比較でしか自国を語れない」という項目)に曰く、「何が正しいのか」を論理的に判断することよりも、「誰と親しくすればいいのか」を見きわめることに専ら知的資源が供給されるということです。自分自身が正しい判断を下すことよりも、「正しい判断を下すはずの人」を探り当て、その身近にあることの方を優先するということです。
ここではないどこか、外部のどこかに、世界の中心たる「絶対的価値体」がある。それにどうすれば近づけるか、どうすれば遠のくのか、専らその距離の意識に基づいて思考と行動が決定される。
こうした日本人の傾向は、ルース・ベネディクト『菊と刀』で既に指摘されていると内田氏はいう。
日本人のこの「親しさ」への固執、場の親密性を自分自身のアイデンティティーの一貫性よりも優先させる傾向・・・
年頭の読書として読んだ内容として、昨年、いやこれまでの自分を取り巻く環境の中で「自分自身が正しい判断を下すこと」を優先してきたゆえにいくつかの軋轢を生んだのであると納得した。こうした日本人的な傾向は、現代社会においても随所に存在するということだ。社会を客観的に見据えることに、知的資源を供給したいものだ。
また朝日新聞に写真家・作家の藤原新也氏が「2010年代 どんな時代に」という特集において「ネットが世界を縛る」では、「いい人」を演じる社会状況を指摘し曰く、
その目に見えない風圧にさらされ、いい人を演じて波風の立たない気持ちのよい人間関係を作ることに個人が腐心する。そこには、相手の言葉や行為を正面から受け止め、たとえ軋轢が生じても自らの思い、考えを投げ返すという、本当の意味のコミュニケーションが希薄だ。
内田氏も藤原氏もどこか共通した日本社会を指摘しているようだ。
さらにはネットによる相互監視が強まり同調圧力が強まる傾向の中で、「ライブ感」のある「身体性」への注目が集まるのではないかと指摘している。小欄を含めてネットによる相互監視を誰もが可能な時代。ある意味で、毎日の行動の概略を記している日記は、「交友関係のみならず世界規模」の監視に自らを曝していることにもなる。それゆえに内容の精査が求められるということにもなるだろう。
以上の論考から得た内容によって、この日の記事は形式を異にする。されど、少しだけ行動を「世界規模」に曝しておこう。
午後から再び西武冬市。昨日買い忘れたマフラーなどを探す。その後ユニクロでジーンズを購入。試着してカーテンの合間から店員を探していると、バイトをしている知り合いの学生さんに偶然遭遇。裾の長さを合わせてもらった。これも何かの縁だ。
夕刻からジムへ。新年の初トレーニング。受付では支店長が担当してくれて、「(初日からの来場に対して)意気込みが感じられますね!」と笑顔。マシンによるウエイトトレーニングを気分良くできた。帰りはよく声を掛けてくれる男性スタッフ。「今年もたくさん来てください」とこちらも笑顔。身体性をもったコミュニケーションを深めたような気がした。
帰宅して食事後は大河ドラマ『龍馬伝』の初回。福山雅治演じる龍馬が「喧嘩じゃ何も変わらん」といい、母が教えてくれたこととして「憎しみからは何も生まれん」と発言したのが印象的。歴史の中の龍馬は偉大だが、その幼少から青年時代は、意外に弱虫で穏健な人物であると描かれていた。
いくつかの視点から社会を考えて、新年三箇日が終わる。
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