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機械との付き合いに絶対はない

2012-08-19
PCを扱っていると、突然変異を起こすことがある。急にネットアクセスができなくなったりすると、作業が中断する。原因を究明する時間をとりながら、それが不明であったりすると、なかなか落ち着かない時間が経過する。かなり以前のことであるが、メモリに大量の負荷を掛けたが為に、一瞬にして落ちてしまい再起不能になった経験もある。機械ゆえに、こうしたことが前提であることは織り込み済みであるが、作業中における“青天の霹靂”は、ショックが大きい。

昨日の小欄で紹介した福島菊次郎氏は、比較的旧式のワープロを使用して文章を書いているようだ。だが、そのワープロの調子が悪いので、起動時に「拝んでからスイッチを入れるの」と言っていて、その映像は映画館内の笑いを誘っていた。だが、実際は誰しもそれが正直な気持ちであるかもしれない。せめて重要な作業中には中断しないで欲しいというのは、かなり深刻な願望である。

ペンと原稿用紙は、そのような裏切りは決してしなかった。自分の指の“ペンだこ”が耐え続けさえすれば、急に作業不能になることはない。だがしかし、やはり僕たちはこの機械を文房具として利用することを選択している。もはやキーボードの感覚によって文章を書き付けており、そこに一定のリズムさえ生じて来ている。

そこには紙に文字を刻むまではいかないが、一定の「刻み付ける」感覚がないわけでもない。それに比して、“コピペ”という行為は何とも安易で文章を軽んじた行為であると感じる。僕が学生時代には、ここまでPCは発達していなかったが、ある先生が次のようなことを言っていた。

「僕らの時代には、優れた論文を全て図書館で書き写したから、内容が全て身体に入っていた。論文の優れた点も難点も十分に理解できたものだ。今はそれをコピー機に委ねてしまい、コピーを取っただけで論文を読んだ気になっている学生が多い気がするがね。」

確かに至言であった。一文字一句を大切に脳で受信し紙に刻むのか、コピーのトナー粒子が紙に貼り付いた跡を読み流すかでは大きな違いがあるように思う。意志を持って刻まれた文字は、その思いを再現するがごとくに読み取る決意が必要であろう。確かに世間を見回すと、実に表面的で軽薄な文章の読み方が横行していることだろう。それは「理解」という意味での読み方然り、また「表現」として「声」に出して他者に伝える行為も然りである。

機械との付き合い方に絶対はない。
人として自らの感覚を信じて大切にしなければならない。
こうしてPCで文章を刻みながら、自戒を込めて。
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