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近代化の歴史の延長で生きている自覚

2012-08-13
昨晩、九州から東京へと戻った。この5日間で向き合えたことが喩えようもなく大きく、僕の脳裏に横たわっている。今ある現実をこの眼で見ることの大切さ。そしてまた、その土地に刻まれた正負の歴史に潜水するように接近する思考と想像。テーマ性を持って一人旅をしてきたことも多いが、今回は様々な生き方をしてきた4人の方々と同行。各自の持つ経験と思考が自ずと干渉し合い融合を余儀なくされ、未知の世界が眼前に現出する。その多彩な“歴史”の重み。それはあくまで個人の「解釈」に依存することで形になるものであるが、何が“事実”で何が“現実”であるかといった「思考の尺度」を、自己の中で誤差修正しながら歩む旅であった。

日本の近代化の延長上で生きている自覚。果たして僕たちにそれが明確に語れるだろうか?便利さと豊かさの追求、そして他国との関係性をどうして来たか。幕末から約150年に及ぶ歴史の中で、僕たち日本人がどう生きて来たか。その随所で起きて来た事実を受け止めて、何を次に考えて来たか?理想的な国を思い描き、強く豊かで便利で負けないことへの飽くなき追求。登り詰めて来た結果、僕たちが見失ったものはないのだろうか?改めてそんな問題意識の高まりが抑えられない旅であった。

長崎の亀山社中で新たな国造りの理想を抱き続けた坂本龍馬。長崎港が見渡せるその小高い丘から、その海の向こうに見える日本の将来をどれほど模索したことだろう。薩摩・長州との関係も考えるに、この長崎という土地が新しい日本の発火点になっているという歴史は重い。

筑豊炭鉱の石炭採掘の歴史。エネルギー源としてその石炭の力が大きく日本の近代化に貢献したことは間違いない。幼少の頃から、何の疑問もなく盆踊りとなれば耳にし、踊りに興じた炭坑節、「あんまり煙突が高いので、さぞやお月さん煙たかろ、さぞヨイヨイ」。「煙突」が高過ぎて、美しい「お月さん」が煙たがっているというこの歌詞。経済発展にばかり目が行くと忘れがちな自然美。高過ぎる煙突が日本の伝統美を穢していたという解釈は、後に時代が動いてからでないと、称揚されることもなくかき消される皮肉でもある。「炭坑節発祥の地」を歩き、平成になった街の“現実”を目にした。

幕末・維新期に最も輝いていた佐賀藩。長崎に至近であるということから、早くから西洋に目を向け、日本の近代化の礎を築いた。その佐賀城本丸御殿の一部を復元した歴史館。木造復元物としては全国最大級ということで、320畳の大広間は壮観である。今まであまり意識できていなかった佐賀の歴史と風土に深い興味を抱いた。


今回の九州訪問の大きな目的が、8月9日の長崎を体感すること。11時2分に平和祈念像の前で黙祷を捧げ、67年前の原爆による犠牲者へ哀悼の意を表すること。やや湿気を多く帯びた暑い長崎の街に、平和の鐘が響き渡った。その鐘を打ち鳴らす綱を敬虔な表情で引く中学生を眼の前にした。時間が経ち子孫に引き継がれていく悲劇の事実。街中にも一斉にアナウンスが為され、11時2分を市民全体で忘れないという思いが伝わって来る。原爆死没者名簿登載者数158754人。だがしかし、市長の平和宣言にも示されたように、未だ19000発の核兵器が世界には存在している事実。核兵器のない世界へ向けて、長崎からの発言の大きさを、更に世界に訴える必要がある。決して長崎市民のみの悲劇の歴史として閉じ込めておいてはならない。いつまでもこの犠牲者の訴えは終わらない。被爆者の平均年齢が77歳を超えたという今だからこそ、僕たちが長崎をもっと知らなければならない。そして平和宣言の最後に込められたことばは、まさに今現在の脅威を僕たちに再認識させてくれる。

 「東京電力福島第一原子力発電所の事故は世界を震撼させました。福島で放射能の不安に脅える日々が今も続いていることに私たちは心を痛めています。長崎市民はこれからも福島に寄り添い、応援し続けます。日本政府は、被災地の復興を急ぐとともに、放射能に脅かされることのない社会を再構築するための新しいエネルギー政策の目標と、そこに至る明確な具体策を示してください。原子力発電所が稼働するなかで貯め込んだ膨大な量の高レベル放射性廃棄物の処分も先送りできない課題です。国際社会はその解決に協力して取り組むべきです。」(長崎市長・田上富久氏の「平和宣言」より抜粋)

これは単なる政治的宣言に非ず。長崎で被爆し犠牲になった方々全ての思いが載せられていると読みたい。それに比して日本の政治における長たる人物は、「中長期的な視野で・・・」などという空虚なことばを長崎の場で投げつける。ある面においては、不退転の待ったなしの議論だなどと喧伝しておきながら、平和祈念式典でのことばとして、あまりにも聞くに耐えないものがあった。時間と共に薄れていく被爆の歴史的事実。僕たち、長崎や広島に住んでいない者こそが、この日を契機に更にその事実と日本人として放射能を脅威とする体験を世界に語って行くべきである。被爆67年の式典に参列した意義は、この上なく大きかった。


胎児性水俣病患者の方々。戦後の経済成長最優先社会の中で、人が生きるということがどれほど軽く扱われてきたことか。生まれながらにして、その社会の不条理を背負い生きてきた方々。彼らが様々な社会的活動をする施設を訪問した。僕自身はもちろん初めての訪問。外来者としてそこに生きる人々の心にどれだけ触れ合えるかは、なかなか不安が拭い去れなかった。しかし、時折笑顔を浮かべて僕たちの訪問を迎えてくれた。僕は、その刹那であったとしてもささやかな笑顔が忘れられない。昼食をともにして、そして数時間の時間が尽きた。これはまさしく継続的にこの施設を訪問したいという気持ちを喚起する序章に過ぎない。彼らが更に若かりし時の勇姿などを含めて、人として彼らと交流して行きたいという思いを強くした。

水俣病がなぜ起こったのか。小学生の頃から公害病として知識として学んできたことを、その土地で、その土地で生きる人々のことばで説明を受けた。そして質問し対話し様々な歴史を語ることばに出会った。大企業の工場が街に存在していることによって活性化するという事実。高度経済成長に欠かせない製品を量産し、日本を豊かにしてきた企業の社会的貢献。されどその背後で、有害物質を海に排出し水質を汚染し、魚を始めとする生物に大きな影響が出る。生物連鎖の中で濃縮を繰り返し、その魚を食した人間が有害物質の犠牲になる。「奇病」として小さなコミュニティーの中でも差別が起こる。その病気の原因が工場排出の有害物質であると、企業は認めず国も認めず。意識なく魚を食べ続けた人々が、次々に発症する。工場排出物質との因果関係を曖昧にし続けることで、補償等の責任放棄を意図する時間が過ぎる。こんな隠蔽体質を企業と国が持っていたことが、ここまで大きな公害病被害を拡大させてしまった。

特措法の患者認定申請期限が先月〆切とされた。新たに地域を拡大し患者認定を申請した方々も多い。だが、この特措法の背後で、国や企業はこの長年にわたる社会問題を収束し終了させようとする意図も見える。水俣病の歴史と社会構造上の体質は、限りなく福島の“今”に似ている。約60年近くになるこの犠牲と闘争の歴史は、今の福島に何を提言できるのだろうか。まずは、その歴史的事実について人間を通して理解しなければ、何もわからないはずだ。今回の訪問は、僕がそれを理解しようとする出発点になった。2泊の滞在の中で濃厚な見学と語り合いができた。だが、まだこれは入り口に過ぎない。この問題と関わってきた人々と、今後も継続的に対話をして行きたい。それは、紛れもなく今の福島を始めとする東日本に在住する、僕たち自身の問題なのだ。

水俣の海はえもいわれぬ美しさであった。不知火海は、波穏やかで風光明媚であった。漁村に繋がれた小舟は、その穏やかな海ゆえに漁が可能であるという、海の優しさを物語っていた。だが、水俣湾に面する埋め立て地の底には、有害物質で汚染された汚泥や魚が何もなかったかのように押し込まれている。その土地の上は、美しい公園やグランドになっている。表面だけみれば何も見えない。だが僕たちは、その土地の底に埋め込まれた物を忘れてはならないはずだ。「もう終わったことにしよう」という意図が、何よりも卑怯で悪質である。いまだ何も終わっていない。患者さんたちは今を生きている。日本は、あらたな汚染の現実を福島で抱え込んでいる。何も学ばない、何も次世代に伝えられていない。日本人は果たしてこれでいいのだろうか。


とりとめもなく、この5日間で体験したことを歴史的時系列に書き連ねてみた。決して旅行の行程に即してはいない。更に弥生時代の遺跡「吉野ヶ里」、そして菅原道真が左遷されて命果てた大宰府も訪ねたことを付言しておこう。北九州には様々な歴史が眠っている。雲仙・天草も車で通過した。今回のみでは終わらない九州が、僕の前に顔を出した。

まだまだ語りたいことは山積しているが、
今後とも折に触れて話題にしていくことにしよう。

歴史を学ぶことは、現在を学ぶこと。
そして未来を語ることにほかならない。

それは書物のみからでは十分でない。
その土地に生きる人と語らずしては、
真の理解には至らないことも悟った。
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