fc2ブログ

訓読という方法の相対化

2012-08-07
高等学校の古典の授業では、「漢文訓読」を学ぶ。入門期に「訓点」(返り点・送り仮名)の用法について学び、レ点・一・二点・上中下点があったらどういう順番で読むかを理解することになる。こうした訓点がふられた四角が羅列され、その空欄の中に読む順番を数字で入れていくような学習をした記憶がある方も多いのではないだろうか。だが同時に、この最初の段階で、「訓読」がいかなるものであるかという視点がなく、ただ読む順番を判断させるのみの学習で、漢文に親しめなかったという方も多いのではないだろうか。四角の空欄に読む順番を入れる学習は、内容分析を伴わない記号解釈となり、むしろ理解を混乱させる要因にもなりかねない。「訓読」とは、語順の違う「漢文=中国文学」を日本語に直訳する実に巧妙な方法であるということを理解する必要がある。

英語学習では、特に訓点があるわけでもなく「S+V+O」の文型構造を把握して、日本語訳を考えていく。日本語は目的語が先に来て、動詞が後に来るので、その部分を反転して訳文とする。それが外国語であると意識した時に、こうした文型構造上の違いが明確に認識できる。だが、漢文の場合の訓読は、「漢に非ず和に非ず」といった非常に曖昧な形で受け止められがちである。それは外国語でありながら、日本語読みが可能であるという極めて特殊な性質が作用しているからである。それだけにこの日本文化が醸成してきた「訓読」という方法のあり方の意義を根源的に理解することが必要なのではないだろうか。

特に高等学校までの「漢文学習」を考えたとき、「訓読」により漢文を学ぶことは前提となる。それは前提であると同時に、元の作品が「訓読」されることで、その読み方のリズムが、文体・語彙・表現・思想・文化に至るまで、様々な領域に影響を与えてきたことも国語史の上で重要であるからである。国語の中で「漢文=中国文学」を学ぶのは、その直訳法である「訓読」を学ぶためであるといっても過言ではない。とりわけ声に出して読んだ時に、「訓読」は流麗に響き、そしてその影響下にある和漢混淆文などの調子がよいのも文体リズムとして「訓読」が、牽引的な役割を果たしてきた証左といえるであろう。

現在、中国の古典研究者が、日本の「訓読」という方法を利用して文章分析を試みるということも行われている。構造を明確にして解釈を考える際に、中国側から見た場合でも有効な解析手段であるということだ。外国文学を読み解こうと努力して来た日本人の思考が築き上げてきた文化の粋。それが漢文の祖国で逆輸入的にその研究に役立つという。それだけに中国古典研究は、東アジアという範囲の中で相対化するものとしていかなければならないのであろう。「訓読」を旨とする我々日本人としても、その「訓読」が東アジアから見るとどのように見えるのであるかという視野を持たねばならないはずである。

もちろん中国語学習を活かして、中国音による音読により研究を進めることが妥当であることはいうまでもない。このレベルでは「音読」と「訓読」を併用しながら、古典研究をしているのが既に標準である。高等学校の学習で中国音による音読は、あくまで参考までに聴く程度の域を出ないであろう。ただ、参考までに聴いて終わるのか、体験的に「音読」に触れるのかでは、大きな違いが生じて来ることも事実である。そこで今回、明治書院の夏の研修会で提案したのが、「日本漢字音による字音読み」である。

春暁       孟浩然
しゅんみん ふーかくぎょう
春  眠  不 覚 暁    春眠暁を覚えず
しょしょ ぶんていちょう
処 処  聞 啼 鳥    処処啼鳥を聞く
やー らい ふう う せい
夜 来  風 雨 声    夜来風雨の声
かーらく ちーたーしょう
花 落  知 多 少    花落つること知る多少


この方法を「訓読」と相互補完的に利用することで、むしろ「訓読」の有効性が際立ってくる。字音で読んでも意味が全くわからないものが、「訓読」をすることで日本語として意味を成してくる。ここに中国文学を享受してきた日本文化の機微が見えてくる。中国の研究者が「訓読」を利用し、解釈の相対化を図っているのならば、日本でもその「訓読」の有効性を相対化して知覚すべきではないかと思うのである。これは特に韻律性を作品の要素とする漢詩においては、様々な面で有効であると考えられる。

日本文化の漢文享受史を見たときに、この「訓読」と「音読」の立場を相互に主張してきた足跡を随所に見ることができる。その議論を覗いてみると、殆どが一方を主張すると他方を否定するという流れにあった。だが、こうした「字音読み」の主張・提案をすることが、すぐさま「訓読」の否定になるのではないということは肝に銘じておきたい。ゆえに、「国語」学習という領域での高等学校においても、あくまで「訓読」は原則にした上で、その相対化と奥深い理解の為に、「音読」に類する「字音読み」を参考までに提示し、学習者も自らが行うことに、意義がないとはいえない。違和感を覚えることから好奇心が膨らみ、言語・文化の視野を拡げる可能性を持つという、大きな効用があると考えている。

関連記事
スポンサーサイト



tag :
コメント:












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック:
トラックバック URL:

http://inspire2011.blog.fc2.com/tb.php/1005-b5abef3b

<< topページへこのページの先頭へ >>