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誰に申し訳ないというのか?―五輪敗戦の弁に思う

2012-08-05
朝のニュースの冒頭から五輪の話題。しかも「メダルラッシュ」などということばが平然と飛び交う。もちろんメダルまでの道程は、常人には想像もできないほどの苦闘があるにちがいない。そして獲得した日本選手の表情を見ると、むしろ無欲で笑顔かつ集中しているような共通点があるように思う。その反面、勝つことが義務付けられているという意識からか、硬直して自己を見失った表情による敗戦の弁が聞かれることも多い。今回、特に目立っているのは柔道の男子選手にこの傾向が強いように感じる。

敗戦の弁を語る際に必ずといっていいほど、「(メダルが取れなくて)申し訳ない」ということばが聞かれる。だがしかし、果たして誰に対して申し訳ないというのだろうか?僕自身、学生時代に団体競技・個人競技ともに運動経験がないわけではないので、何となくこの「申し訳ない」という心理はわからないでもない。ただ、敗戦の弁から逆算して競技の途中経過を考えたときに、その心理こそが敗因になっているのではないかと思えてしまうのである。

柔道は日本発祥の競技であるが、今や世界的に定着した五輪公式競技である。発祥の国であるから強豪であるという図式が通用する時代は、過去のものとなっているのではないだろうか。むしろ、世界の多くの国々の選手が、メダルを目指して柔道に前向きに取り組んでいる姿を喜ぶべきではないかとさえ思う。試合中の用語に「日本語」が使用され、礼を交わすという日本文化を背負った競技が、世界の中で立派に市民権を得ている。僕自身が大好きな野球やソフトボールが、今大会から競技として外れたことを考えると、大変羨ましささえも感じてしまう。

発祥の地であり、その国の伝統文化を背負った競技が世界標準になることは喜ばしい。そして「(柔)道」のもつメンタリティーが受け入れられていく。伝統文化が相対化され日本に住む我々が改めてその良さを自覚できる。他国の選手がその「道」で頂点を目指す努力をしていること自体が、誇らしいことなのではないかと思う。発想を逆転すれば理解しやすい。それは、サッカーが男女とも躍進している現実や身体的に大きな選手を相手に日本選手が奮闘する姿があってこそ、その五輪で行われる競技の奥深さが見えてくるということだ。むしろ「柔よく剛を制す」という「柔道」の根源的テーマを、他の競技の選手が体現しているとさえ感じられる。サッカーで欧州や南米の伝統あるチームに勝利するのは、まさに柔軟な発想と活き活きと笑顔で前向きに自分たちのプレーをする、硬直しない心身状態の勝利ではないかと見える。決してメダル先にありきではない、自分の個性を最大限に発揮した“結果”が産み出すものであると思うのである。過去に「結果的に」メダルを獲得し、一躍世間に名を成した選手が多いのも、こうした過程があるのではないだろうか。

競技団体内における「強化」という名の義務的・使命的な精神の押し付け。メディアによる「メダル獲得中心主義」による他愛もない事前予想の喧騒。そんな環境の中で、自分が本来その競技にどんな理想を抱き、どれほど好きで、どんな自分を見せたいかという“本筋”を見失ってしまう選手が、柔道に限らず多いのではないだろうか。自分が大好きでやりたいからやっている競技を、いつしか“他人の為”にやっているような状況に押し込まれているように思えてならない。だから敗戦の弁に「悔しい」ではなく、「申し訳ない」が最初に発せられるのではないだろうか。


メダル獲得ではなく、
選手たちがどれほど極限のパフォーマンスをしているかという深層を
僕たちはもっと見つめたい。

政治・行政・メディア
三位一体による押し付けを僕たちは跳ね除けて
運動の魅力を自分自身の眼で見守りたい。

五輪後半、
伸び伸びとした躍動感のある選手の笑顔こそが見たい。
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