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漢詩を楽しもう!(夏の研修会関西編)

2012-08-02
漢詩は主に「訓読」することにより、日本人はその美しさを享受してきた。その訓読自体の響きが、「文語自由詩」(定型詩に対しての)として、日本語の文体をはじめ思想・文学・文化に大きな影響を与えて来たのも事実である。

 春暁       孟浩然

 春眠不覚暁    春眠暁を覚えず
 処処聞啼鳥    処処啼鳥を聞く
 夜来風雨声    夜来風雨の声
 花落知多少    花落つること知る 多少

主に「動詞+目的語」構造の部分を返って読み、「暁を」(目的語)+「覚え」(動詞)+「ず」(打消助動詞)と読むのが訓読である。いわば、中国文学という「外国文学」を即座に直訳できる翻訳方法である。日本の長い間の漢文享受史が、このような”方法”を産み出したのである。高等学校で学習する「訓点」(返り点・送り仮名)に嫌気がさしたという諸氏も多いのではないかと思うが、単に「記号をふる」という行為ではなく、外国文学の直訳法であるという感覚で接すると、親しみ深いものになるのではないかと思われる。

訓読であっても、中国文学としての「漢詩の響き」の要素に近い部分も見出すことができる。前例の詩で言えば「夜来風雨(の)声」である。「の」という助詞を一字加えたのみで、原詩の語順のままである。「二音+二音+一音(休音)」という拍節リズムを感じることができる。最終句(結句)も「知る」よりも「多少」を前に持ってくる訓読もあり得るが、敢えて「知る 多少」とする。原詩のリズムを重視するゆえである。更には、次の七言絶句の例などは訓読でも漢詩本来の響きを十分に味わうことのできるものである。

 江南春     杜牧

 千里鶯啼緑映紅  千里鶯啼いて緑紅に映ず
 水村山郭酒旗風  水村山郭酒旗の風
 南朝四百八十寺  南朝四百八十寺(なんちょうしひゃくはっしんじ)
 多少楼台煙雨中  多少の楼台煙雨の中(うち)

特に「南朝四百八十寺」の句は、漢詩本来の響きをほぼ再現しているといってよい。「十」を通常の「じゅう」ではなく「しん」に読み替えているのは、平仄の関係を考慮したからであり(考慮すべきか否かで議論はあるが)、その読み癖が保存された例である。そのため、むしろ原詩の「二音+二音+二音+一音(休音)」というリズムが見事に再現される。またその訓読自体が、見事な「七五調」になっているのも、余計にこの訓読の調子を際立たせる。また、第二句目(承句)は、芭蕉の弟子である服部嵐雪が次のような句に仕立て上げている。

 はぜ釣るや水村山郭酒旗の風

俳諧の「五七五」のリズムに全く違和感がなく同化する「七五調」句であることがわかる。

こうした訓読を介在させた日中詩歌のリズム論は、日本語の様々な言葉の響きへの問題意識を喚起し、漢詩という存在の魅力を存分に引き出してくれる。こうした韻律の妙を無視して、訓読した書き下し文をノートに書いて、それに回りくどい訳をつけ、「鑑賞」らしき作られた実感のない言葉を提示される授業では、高校生に漢詩を親しませるなどという目標は、空虚な妄想になってしまう。むしろ、こうした漢詩を遊び感覚で翻訳した井伏鱒二の試みなどを併用して音読し、日本語のリズムを楽しむ方が効果的であろう。先の「春暁」の翻訳詩。

 「ハルノネザメノウツツデ聞ケバ
  トリノナクネデ目ガサメマシタ
  ヨルノアラシ二雨マジリ
  散ツタ木ノ花イカホドバカリ」
  (『厄除け詩集』より)

 昨日の高校の先生方向けの講演で述べたことの一部を紹介した。

 関西地区の先生方は、冒頭から僕の投げ掛けた質問にも積極的に応じてくれた。そして、参加者が6班に分かれて約15分間の班別相談の後に、見事な漢詩群読を披露してくれた。中には中国語の心得がある先生方もいらして、まさに原詩の響きを再現してくれた。講演後半を参加型ワークショップにして、本当によかったと実感できた。

この研修会を担当して改めて思ったのだが、
やはり教壇に立つ者その人自身が、いかに教材を楽しめるか
ということが何よりも大切なのではないだろうか。

指導者がつまらないと思っていては、学習者にその魅力が伝わるわけはない。

研修会に参加いただいた先生方が、それぞれの〈教室〉に帰り、
漢詩の響きに魅了された感性を以て楽しい授業を展開することを切に願う。


みんなで
漢詩を楽しもう!




 
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