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祝・中原中也賞受賞ー佐藤文香詩集『渡す手』

2024-02-20
「我々は
 書き下し文のように
 ひらかれた気分をしていた」(『渡す手』帯に掲載の引用より)

最近、小欄をいつものように書くことが、果たして意味ある行為なのかと疑問に思うことがある。長年の行動習慣ゆえに、むしろ簡単には止めることはできない。疑問の内実はその「文体」にある。『心の花』誌にはここのところ「幸綱先生語録」が連載されているが、その中にも「短歌づくりのために、朝は一定の時間を取っている」という趣旨のものがあった。小欄に費やす時間を短歌表現に向けてもよいのではないか?もちろん小欄を書くことが、自らの短時間に文章を書く能力を開発してくれてきたのは事実だ。ゆえにはその効用を短歌に向けてもよいのでは?と考えるのである。折しも2/11・2/12の小欄に記したように、俳人の佐藤文香さんとの交流で「詩歌の文体の越境」への問題意識が高まっていた。表現の形式は自己の中で相互に刺激し合い、それぞれが昇華すると思えてきたからだ。

先週末、大学先輩のSNS 投稿に「幾時代かがありまして/娘が中原中也賞」とあった。あまりの嬉しい喜びと驚きに、Web上で確認をしてすぐさまご本人へも祝福のメッセージをお送りした。選考理由等の詳細は確かめていないが、前述した「文体の越境」を叶えている点は大きいのではないかと個人的に思う。短歌より短い十七音という俳句の文体から飛び出して、短歌に関わる仕事も多いと本人は先ごろの写真展会場で話していた。さらに今回の受賞は「短歌三十一文字」も超えて、「現代詩」というさらに形式を抜け出した「文体の発展的躍動」を感じる作品群だ。冒頭の帯文にもあるように、『渡す手』そのものが「文体」への意識が随所に感じられ僕の意識を刺激してくる。多くの人が「現代詩」だと思う文体もあれば、「短文エッセイ」だと思う文体もある。ゆえに僕などは、もっと小欄を詩歌的な文体で書けないものかと欲が出る。短詩系からの「発展的躍動」とともに「集約的回帰」の往還縦横運動こそが、現代詩歌が目指す地平なのかもしれない。

牧水も目指していた「詩歌総合(雑誌)」
石川啄木・北原白秋の成果とともに牧水にも光を当ててみるべきか
固着から飛躍へ、現代詩歌は限りなく面白いと佐藤文香を見ていて深く実感する。


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