fc2ブログ

抽選は夢

2024-02-29

桑田佳祐さんが68回目の誕生日である2月26日に、「お酒が飲める小さなところ」でのソロライブの開催を発表した。3/29・30はブルーノート東京、4/5・6はクラブ新世界(神戸)での開催となる。ブルーノートでは既に2021年3月7日に無観客オンライン配信ライブを開催し、ソロのミュージシャンとしての実力を存分に魅せてくれた。ゆえに今回の速報を眼にした時、思わず声を出してしまったほどファンとしては待望のライブである。しかし、昨年9月のサザン茅ヶ崎ライブもそうであったが、チケットが実に稀少となる。ブルーノートのキャパは「400」、その「小さなところ」であるからこそ歌う価値もある。

大谷翔平・山本由伸が出場する韓国でのMLB開幕戦チケットも、球場のキャパが少なく実に稀少だと評判だ。だが果たして、これを比較したらどちらが倍率が高いだろうか?と思いたくなる。桑田佳祐さんのソロライブチケットは、応援団(ファンクラブ)限定エントリーによる抽選となる。しかも「1人1枚」のみしかエントリーできない。そんな意味では真に桑田さんを慕う、しかもコアでオタクで雰囲気を必ず創る客でブルーノートの客席を埋めたいというファンの切実な願いは叶う。東京の親友にこの速報を伝えると「マジで!」という反応でともに同日をエントリーし「奇跡を祈ろう」と誓い合っている。果たして僕たちの夢は叶うのだろうか?


関連記事
スポンサーサイト



tag :

おばあちゃんのちから

2024-02-28

2月は人生最大の関門を思い出す。どうしても入りたい大学の入試。受験勉強に勤しむ日々には、母方のおばあちゃんが我が家に居た。日々の洗濯を担い、丁寧に畳んで僕の部屋まで届けてくれた。幼少の頃から、おばあちゃんの新潟の昔話を聞くのが好きだった。どこか不思議で怖くてでも温かい、昔話の中の物語性に目覚めた。よく僕の部屋の前の物干しから、おばあちゃんの鼻歌が聞こえた。どんなに辛くとも音楽のメロディーがあれば救われる、のだと学んだ。

受験は孤独な闘いだと、恩師は言った。その言葉に勇気をもらった。勉強に向き合えるのは自分だけで、決して人のせいにはできない。「誰々がいると勉強ができない」などと言う奴は、「勉強の孤独」を知らない。勉強はやればやっただけ自分を裏切ることはない、ゆえに人のせいにもしない。それでも入試の当日、おばあちゃんにおはようと言って、母が早朝から作ってくれたハンバーグ弁当を持って試験会場に向かった。決して独りではない、手元の受験票は郵送到着日に、母がそのまま祈願に行った力が宿っていた。


関連記事
tag :

データ転送

2024-02-27

新しいスマホに旧機種からデータを転送する。携帯会社に依頼すると料金が発生するというので、前回ぐらいから自ら実行するようにしている。機種そのものがだいぶ進化したようで、新旧をそばに置いておくだけで、まるで魂が乗り移ったように新機種が旧機種そのものになってくれる。明らかに容易になったのであるが、実行するとなると身構える自分がいる。スマホ会社でも注意点が提供され、「これを実行しないとデータが消えた」とか「(旧機種を返却した際に)補償料がかかってしまう」というケースを紹介された。PCを使い始めた頃、まだ保存の機械的構造がよくわからず、せっかく時間をかけて作成した大学院のレポートが「消えてしまった」とたぶん勘違いした経験が今も尾を引くのだろう。

服や靴、自動車や家電品などの使い始めには自分なりのこだわりがある。いわゆる「おろす」のは大安とか友引の暦を選ぶ。着こなしや足入れ、運転のための基本設定を的確に行いたいという気持ちが強い。使い始めの出逢いが、何より大切だと思うゆえである。ただあまりにそう考えるあまり、物事を大事に考え過ぎて柔軟に大胆に進められないことも少なくない。例えば、データ転送などの過程でもある操作ができていないと、最初からやり直したくなる。基礎基本を的確に積み上げたいと思う、小学校の頃からの性癖かもしれない。かくしてデータ転送は、やってみれば「何ということもなく」完了をした。むしろスマホ機種の進化には、前述したような人間の戸惑いを遥かに超えたものがある。さらにAI(人工知能)の進化が叫ばれる時代、反転して「憂いや心配があるからこそ人間」の証明になるのかもしれない。


関連記事
tag :

趣味ー「遊び」の大切さ

2024-02-26

「遊んでいる」ことに対して、この国は寛容ではない。小学生であれば、「遊んでばかりいないで勉強をしなさい」とたいていは言われる。辞書で「勉強」を引くと、「気が進まないことを、しかたなしにすること。」(『日本国語大辞典第二版』項目2)とある。それゆえか子どもたちの国際的に相対的な傾向として、「自ら主体的にやりたいことをする意欲」が低いとも指摘される。多くのことが「やらされる」という気持ちでの「勉強」になってしまっている。反転して「遊び」は、主体的な言動の宝庫ということになるだろう。最近の学力観では「個別最適に主体性を持って学びに向かう」ことが肝要とされてきた。学習で育むとされる「思考・判断・表現力」には、「遊び」の要素が無くしては成り立たないようにも思う。

遊ばないと自らの可能性がわからない。中高時代の「部活動」を考えると明らかであるが、「授業」よりも人生そのものを啓発する場合が少なくない。さらに言えば「運動」は奨励されるが、「音楽」は偏見視されることもある。その延長で大人になっても「ゴルフ」はよくても、「音楽」には否定的な偏見がある。これは一般的な見方ではなく、たぶん僕自身が父親から強制された感覚だろう。今にして思えば、10代から楽器に取り組めたなら違う可能性もあったのではないかと思う。現に幼稚園の頃には、アコーデオンやエレクトーンを習う機会を得ていた。人はその時の思いに任せて、自由に「遊ぶ」ことが必要だ。欧米では「遊学」という単語のように、「遊び=学び」と考えられている。「遊ぶ」ことで人の優しさや思いやりも「学ぶ」ことになる。最近の母が、「鉛筆画」や「フラダンス」と趣味としての「遊び」を楽しむことが喜ばしい。


関連記事
tag :

#うたごたつ 2日目 百人一首占いと公開歌会

2024-02-25

宮崎市中心部の若草通り、第4土曜日は街市の日。アーケード街に様々な出店が並ぶ中、「うたごたつ」(2日目)が通りの中央に2台設置された。道ゆく多くの人が、気軽に「うた」に出逢うことができる。宮崎駅と中心繁華街を結ぶ通りで、人の流れに「うた」を委ねていく。13時からの「百人一首占い」には、その街行く人の多くが参加してくれた。パソコン上で『百人一首』の札がスタートと言うと早送りでめくられてゆき、ストップと言った時に出た札の歌が「あなたの今日の運勢」ということになる。僕自身も挑戦すると「恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか」(壬生忠見)が出て、「人に知られないように隠しておいたものが・・・」という運勢が提供される。街ゆく人の反応もよく、『百人一首』のそれぞれの歌には人の世の運命(さだめ)が乗せられているのがわかる。

16時から公開歌会。9人の若手歌人がこたつを囲み、無記名のうたへの批評をくり広げた。歌そのものもユニークで若者らしいものであり、自ずと批評も密度の深い展開を見せた。「歌の主体」「現実感」「主体の特質」「出来過ぎ」などという評語(実際には違う語で評しているが僕自身の受け止めとして)が個人的に気になった。素材は「インスタ」「ビニール傘」「ベースライン」「ビールの泡」「菓子パン」「別れる背中」「ちえのわ」「体温」「虹」であった。歌会ごたつの傍には伊藤一彦先生も見えて、比較的寒い中を1時間ほど熱心に若手の評に耳を傾けていた。今回の「うたごたつ公開歌会」にはある意味で、現在の若手を中心とする「短歌ブーム」を縮約した世界が再現されているように思った。変化の激しい不透明な時代に吹く風に向き合い、うたことばに託して自らの存在を確かめていく。「こたつ」の温みのみならず、仲間とともに温め合って時代を生きる若者の姿を見た気がした。


関連記事
tag :

#うたごたつ やってます

2024-02-24
なぜ前に「うた」がつくと、「こたつ」が「ごたつ」になるのだろう?かつて中国の人が経営する中華料理店で、壁に「牛ガツ」と貼られていたメニューが気になり注文をした。湯気を立てて来たのは「牛の胃袋」を甘酢がけにした代物、少し口にしたが食べるのは困難と判断せざるを得なかった。店員も見兼ねて「食べられないね」と心配したが、僕の頭には店の人が「(とんかつなどの)カツ」を日本語を存分に習得したので「ガツ」と濁音にしたのだと感心したのが注文に心が動いた要因だった。(「ガツ」が胃袋の意だと頭に浮かばなかった)文法ではこれを「連濁」と呼ぶ。僕らは通常は「清音」のものを、言葉が連接することで無意識に「濁音」にしている。言葉が身を寄せ合うことで「ごたつ」になり、人々がそこに足を差し入れて身を寄せ合う雰囲気の「ごたつく」の趣旨が出るようにも受け取れる。

宮崎大学短歌会の井口寿則さんを中心に、宮崎市中心部の若草通りまちなかキャンパスにて「うたごたつプロジェクト」(アーツカウンシルみやざき申請)なる企画を開催している。昨日が初日で「外国語で詠む短歌」「歌につながることば集め」などの企画が行われ、後者には僕も参加した。アーケード街の屋根の下にこたつが二台用意され、まさに短歌ブームの牽引役ともいえる若手歌人としてゲストの平出奔さんらが身を寄せ合っている。。まさに大学生の部屋のこたつがまちなかに再現されたようで、その「ゴタゴタ感」に街ゆく人も目を留めていく。人と人とが身を寄せ合って「うた」を詠み合う。もしかするとこんな若者が語り合う原風景こそが、「うた」の根源的な存在価値なのかもしれない。


*本日24日(土)12:00〜18:00開催
関連記事
tag :

ひとはなぜうたうのか

2024-02-23
「 KARAOKE(カラオケ)」といえば海外でも通じる日本語の一つ、「SUSHI(寿司)」「SAKE(酒・主に日本酒)」「UMAMI(旨味)」などとともに娯楽的な場面で欧米やアジアで親しまれている。中には「KARA OK」と「OK」を掛詞にしている看板を、中国で眼にしたことがある。『日本大百科全書(ニッポニカ)』によれば、「そもそも音楽業界の用語で、歌手の練習やレコーディング時に使う伴奏だけを録音したテープやレコードを、「空(から)のオーケストラ」の意で、「カラオケ」とよんだ。」とある。こうして今、文書を書き込んでいても「音」を打てばカタカナで「カラオケ」と第一候補として変換される。同書によれば「70年代中ごろには全国に普及」したのだと云う。

世代として「カラオケ」の発展を全て、人生とともに見てきた。「スナック」と歌詞カードから発し「家庭用8トラ」そして画像が出て曲に合わせて歌詞の色が変化していくようになった。やがて個室化してボックスとなり、グループごとに見知らぬ人の歌を聞くことはなくなった。うたうためには、基本的に酒を飲むことが前提となる。「スナック」が発祥ということに由来するのだろうが、ボックスでもアルコールかどうかは問わず「ワンドリンク」が基本だろう。反転して言えば、若い頃から酒宴にはたいてい「カラオケ」がつきものだった。ではなぜ「ひとはうたう」のだろうか?曲の歌詞には「ひとつの物語」がある。酒によって現実からあくがれたひとが、歌詞の物語主人公に一時的に憑依する。ふと我に帰った時の距離感によって、新しい明日が来るような気になるのかもしれない。


関連記事
tag :

機種変とアップデート

2024-02-22
「残価設定」という自動車の制度にも似て
2年経過すると残りの機種代は支払わずに新機種へ
「買う」のか「借りる」のか、常にアップデートする機器たち

自動車や家電品は大切に丁寧に使用する、昭和の頃はそんな暗黙の了解があった。自動車ならワックス掛けを怠らず、小さな傷も許さない。テレビや洗濯機という高度経済成長期に現れた代物は、10年20年と持つような家具に匹敵するような感覚だった。確かに今考えても、「物を大切に」というのは持続可能社会のためにも大切だ。しかし現在は自動車代金もスマホの代金も全ては支払わず、一定の期間を使用すると「残価」は免除され下取りされ新車・新機種に変更することができる。スマホの制度で驚いたのは、2年間は支払額が抑えられているがそれを越えると月々の支払額が上がるという事実だ。つまり大切に丁寧に使用する前提で、2年間(最近は1年の場合も)が経過すると新規製品に交換できるという制度である。

「サブスク」という言葉、「定額制」などと和訳できるのか。いわゆる「・・放題」で食べ物なら「おかわり自由」だろうか。例えば、音楽は音源としての「CD」かつての「レコード」を買うのではなく、端末の中に「音源をダウンロード」する。常に一定の登録範囲なら、好きな音楽を「食べ放題」な制度である。僕らの必需品である「辞書関係のデータベース」も年会費を支払ってWeb上からデータベースシステムの提供を受ける。新規の辞書が追加された場合でも、すぐに更新されてそのまま使用できる。むしろ一時期の「バージョン」を所有してしまったらすぐに旧くなってしまうのだ。いずれもIT機器の発達がなせる技だが、それならむしろ何も「所有しない」シンプルな生活が一番のようにも思えてくる。

新しい機種に何を求めるのか?
「所有」の考え方の大きな変革が
今日のあなたはアップデートしているだろうか。


関連記事
tag :

迷路の右側の壁

2024-02-21
行き場のない感情、という言い方がある。だが果たして、本当に行き場がないのだろうか。子どもの頃からものを読むのが好きで、「小学◯年生」という雑誌を秋山書店という街の本屋さんから定期購入していた。自分の意志で購入する年齢でもないので、今になって購入してくれていた母に感謝したい。読んでいるとたいていは「迷路」のコーナーがあって、それを実行するのが嫌いなようで好きだった。いざ始めると、出るまで終えることはできない。難解にしておかないと読者は楽しめないが、あまりにも度が過ぎて読者が諦めては用を成さない。いかに早く脱出すればいいのか?じっくりでも無理をせず出口に辿り着けばいいのか?まさに自らの感情が「迷い路」でさまよう。

誰しもが路になど迷いたくない、と思っている。だが意図せず迷うのが、この世の定めだ。でも大丈夫、「小学◯年生」にはその脱出方法が書かれていたことをよく覚えている。「迷路」に入ってしまったら「右側の壁を手でなぞりながら進む」と時間はかかるが必ず出口に至るのだと云う。それを知った安心から、その後は「迷路」が怖くなくなった。どんなに迷おうと、出られないということなどないのだと。あの小学生向け書籍を「学習雑誌」と呼ぶのなら、確かに人生の予行演習を学ばせてもらっていたのだろう。いついかなる年齢になっても人は迷う。だが出られない路などないのである。さあ、右手を壁に沿わせて、歩んでみようではないか。


関連記事
tag :

祝・中原中也賞受賞ー佐藤文香詩集『渡す手』

2024-02-20
「我々は
 書き下し文のように
 ひらかれた気分をしていた」(『渡す手』帯に掲載の引用より)

最近、小欄をいつものように書くことが、果たして意味ある行為なのかと疑問に思うことがある。長年の行動習慣ゆえに、むしろ簡単には止めることはできない。疑問の内実はその「文体」にある。『心の花』誌にはここのところ「幸綱先生語録」が連載されているが、その中にも「短歌づくりのために、朝は一定の時間を取っている」という趣旨のものがあった。小欄に費やす時間を短歌表現に向けてもよいのではないか?もちろん小欄を書くことが、自らの短時間に文章を書く能力を開発してくれてきたのは事実だ。ゆえにはその効用を短歌に向けてもよいのでは?と考えるのである。折しも2/11・2/12の小欄に記したように、俳人の佐藤文香さんとの交流で「詩歌の文体の越境」への問題意識が高まっていた。表現の形式は自己の中で相互に刺激し合い、それぞれが昇華すると思えてきたからだ。

先週末、大学先輩のSNS 投稿に「幾時代かがありまして/娘が中原中也賞」とあった。あまりの嬉しい喜びと驚きに、Web上で確認をしてすぐさまご本人へも祝福のメッセージをお送りした。選考理由等の詳細は確かめていないが、前述した「文体の越境」を叶えている点は大きいのではないかと個人的に思う。短歌より短い十七音という俳句の文体から飛び出して、短歌に関わる仕事も多いと本人は先ごろの写真展会場で話していた。さらに今回の受賞は「短歌三十一文字」も超えて、「現代詩」というさらに形式を抜け出した「文体の発展的躍動」を感じる作品群だ。冒頭の帯文にもあるように、『渡す手』そのものが「文体」への意識が随所に感じられ僕の意識を刺激してくる。多くの人が「現代詩」だと思う文体もあれば、「短文エッセイ」だと思う文体もある。ゆえに僕などは、もっと小欄を詩歌的な文体で書けないものかと欲が出る。短詩系からの「発展的躍動」とともに「集約的回帰」の往還縦横運動こそが、現代詩歌が目指す地平なのかもしれない。

牧水も目指していた「詩歌総合(雑誌)」
石川啄木・北原白秋の成果とともに牧水にも光を当ててみるべきか
固着から飛躍へ、現代詩歌は限りなく面白いと佐藤文香を見ていて深く実感する。


関連記事
tag :
<< topページへこのページの先頭へ >> 次のページへ >>