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制約されない記憶ー山下清展

2023-11-05
周囲にいじめられひとりで絵を描く
見てきた景色の記憶で描いていく
手紙に句読点がないことを母に断るなど

宮崎県立美術館で開催中の「山下清展」を観た。あらためてその生涯と作品を味わったが、ドラマや映画でのイメージとはいささかの違いがあることも今回の展示で知ることができた。幼少の頃より周囲からいじめの対象となり、ひとりで閉じこもって描画に励んだ。7歳前後の鉛筆画にも繊細な観察眼が発揮されており、想像力と筆致との連動には眼を見張るものがあった。さらに貼絵作品制作の几帳面さと色彩の豊かさには、その本性から発する才能の豊かさが実感できた。放浪の旅や欧州旅行を題材にした作品には、景色を生きる喜びに転化する感性が窺い知れた。

作品解説などを読んで特に気になったのは、景色のある場所で作品を描くのではなく記憶している景色を描くという点だ。写真や動画が全盛な現代は、正確さに拘る感覚が蔓延っているように思う。だが一旦は自らの記憶の中に寝かせて創造的に発酵させるような過程が山下清の中にあったとしたら、大変に興味深い。ある意味で「短歌の景を言葉で捉え直す」ことに類似していると考えたからである。また展示にあった「母への手紙」では、その文章に「句読点がない」ことに対して盛んに断り書きを記していた。山下清の文面に拠ると「喋る言葉には句読点はない」からだと力説している。現在の「国語学習」では「句読点を適切に付ける」ように教わるが、まさに山下清がいうようにオーラル表現(喋り言葉)には「、」「。」はない。むしろ「読む側」が書き手の息遣い(意識)を汲み取るように読みべきものなのではないか?講義などで古典本文を扱う際、学生の「句読点への意識」が浅はかなのを感じるが、知人の日本語学者は手紙に「先方に失礼だから句読点は付けない」のだそうだ。肉声のような山下清の葉書には、日本語の原点が垣間見えた。

輝く個性を大切に開花させること
「イメージ」という意味で興味深い想像力と言葉
制約されず己の心を解き放つ抒情が様々な面で開花するのだろう。


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