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人の話を聞くときはー独善に陥らぬために

2023-10-31
「相手の眼を見てしっかり聞きます」
話し合いは「相手の話を聞いてから話します」
幼稚園で習った小さな作法(幼児から大人まで)

入試で「国語」の問題を解くとき、研究で先行研究を読み自説を立てていくとき、そしてまさに短歌を読み・詠むとき、何より注意しなかればならないのは自らが「独善」に陥ることだ。「独善」という語をまずは独善的にならずに意味を取ると「客観性がなく自分だけが正しいと考えること。ひとりよがり。」と『日本国語大辞典第二版』の項目二にある。(項目一は「他人に関与しないで、自分の身だけ正しく修めること。」とあり元来が『孟子』に典拠があり、平安朝漢詩文などで使用された単語である。)人は例外なく自分自身の考え方・感性・感覚を持って生きている。だが他者の言うことを「客観的に適切に理解する」ことが、何よりも肝心なのである。

入試問題「国語」を読み解くときに、自分の先入観があっては文章の適切な理解はできない。「独善を排し丹念に文脈を追うこと」ただこれだけが入試攻略の鍵だと講習で習ったとき、高校3年生の僕はハッとさせられた。今までいかに自分だけの思い込みで文章を読んでいたかと・・・。個々人が主張や考えを持つことは重要だ、むしろ日本ではそこが不足していることを多くの分野で指摘される。だが「主張や考え」を持つためには、まずは他者のそれを尊重できなければ始まらない。この入試解答の基本姿勢は、僕にとって幼稚園で習ったことに通じる。「相手の眼を見てしっかり聞く」ということは、「相手の立場になる」ということだ。誰しもが自分の考えを相手に「伝えたい」と思う、その立場になるならばまずは「相手の話を聞いてから話します」が前提となる。僕自身も若い頃は主張が強すぎて、よく「相手の話に割り込む」ことがあった。「割り込め」ば相手の話の趣旨をズラし、自分が言いたい事に誘導しかねない。ここに入試も研究も短歌も「読めなくなる」独善的な落とし穴があることに気づく必要がある。

会議・質疑・会話の基本的作法
自分が話しているときに遮られることを想像して
「独善」と「独自」の大変に綿密で微妙な差異を短歌は見定めさせてくれる。


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あの頃の日本シリーズ

2023-10-30
少年時代、後楽園と巨人軍の宿泊先と
大学時代は阪神優勝に神宮球場のバイト先から動員が
秋晴れのもと行われていた日本シリーズ

土日は諸々と家ですべきことがあり買物以外の外出はせず、久しぶりに日本シリーズ第1戦・2戦のTV中継を観た。おかしなことに2試合で相互のチームが一方的に8対0となり、投手戦の僅差の試合になる予想に反してやや大味の試合になってしまった。僕が少年・青年時代の経験では、日本シリーズは1球が流れを変える大変に綿密な試合の記憶が多い。しかも1993年までは昼間に試合が行われていたゆえ、平日は学校や仕事と重なりつつ寸暇を惜しんで試合を観ていた記憶がある。確か中高教員の頃は未だ3学期制で、2学期中間試験の時期にあたり平日の日本シリーズが観やすかったという好条件も手伝っていた。

中学生の頃は実家が後楽園球場まで近いせいもあり、自転車でよく球場に赴いた。球場のみならず巨人軍が当時は縁起を担いでシリーズ中はある旅館に宿を取ることを知り、いわゆる「出待ち」(現在では禁止されていることが多い)をしに向かった。日本シリーズの試合が終わってから自宅を自転車で出ると、ちょうど旅館に選手らが帰ってくるタイミングに合う。そこでは王貞治さん・高田繁さんなど名だたる当時の選手たちと握手をすることができた。また大学生の頃は神宮球場でバイトをしていたので、ちょうど85年に阪神タイガースが優勝する可能性のある試合は21年ぶりということもあり警備を固める必要があったようで、バイト先から動員がかかったものだった。結局は大学祭の準備でバイトには行けなかったが、学祭準備の最中もラジオが手離せなかったのを記憶する。

ドーム球場が増えて気温調整ができTV視聴率が上がるゆえ
1994年の巨人対西武から平日はナイトゲーム、翌年から全試合が
平日土日を問わず秋晴れのもとで日本シリーズが行われていた祝祭的な雰囲気が懐かしい。


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闇と照明のことなど

2023-10-29
ただ明るければいいのだろうか?
夜は闇に考え過ごす時間があってもいい
生きるために適切な明るさとは・・・

宮崎に移住した10年前、自宅や大学周辺の夜の暗さにいささか戸惑った。街灯や建物からの灯りも少なく、歩みゆく道に不安を抱くことさえあった。その2年前、東日本大震災で東京の街が計画停電などで街灯などの明るさをだいぶ節約したことがあった。その際に僕らはあまりにも「明る過ぎる環境」に居住しているのだと考えさせられた。今は電気料金の高騰とは言いつつ何も省みられず、東京は再び過剰なエネルギー消費地である。宮崎が月も星も綺麗なのは、明らかに街全体の照明が少なく夜空をくっきり浮かび上がらせるからだ。羽田から夜間に飛び立つ航空機の窓からは明らかに過剰な光の街を見ながら、宮崎に着陸する際の街の明るさにホッとするものだ。

自宅ダイニングの照明器具を、一部改装してもらった。蛍光灯だけ本数の多い旧式のものから、白色と暖色に切り替えが可能なダウンライトを天井に埋め込んでもらった。イメージをするならば、「白色=朝の光」「暖色=夜の光」ということになるだろう。ということは今までは夜も「朝」のような光を浴びて過ごしていたと言えるのかもしれない。照明がLED化してから多様な光が選択できるようになり、室内の光を演出できるようになった。夜に適した光を灯すと、TVの日本シリーズ中継もくっきり見えるように思えてくる。同時に昨日も書いたように月の出から宵のうちの十四日の月が大変に気になる。本来は「月明かり」にありがたさを感じて生きるのが、人間の本能なのかもしれない。1日の中の「光と闇」について、もっと敏感に読み取って過ごしたいものだ。

料理もどんな環境で食べるか?
そして今日も日の出と月の出を待っている
闇を大切にしてこそわかることがある。


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一ヶ月前の月・一ヶ月後の月ー十三夜への思い

2023-10-28
ちょうど一ヶ月前に見た月を忘れず
日の入りと絶妙なタイミングで東の空に
一ヶ月という時間の長さを身をもって感じて

歯科医の三ヶ月に1回の定期検診、いつも予約枠を最終時間にしているのでたいてい検診が終わると6時過ぎになっている。三ヶ月前の7月を思うと、日の入り時間がこんなにも早くなったのかと思いつつ自宅までの道を歩いた。すると東の空に、実に綺麗な旧暦九月十三夜の月が出ていた。「秋は月」を愛でるのは自明であったろうが、「日の入り」時間による演出が抜群によいという条件が作用しているのだろう。ちょうど一ヶ月前は「仲秋の十三夜」であったわけだが、それは僕にとって一生涯忘れられない月になった。月齢から同じ月齢まで、なかなか意識したことがなかったが今月はそれがはっきりと自覚できるようになった。

諸説はあるが「十三夜の月」を愛でる初めは、醍醐天皇の延喜19年(919)に宮中の清涼殿で月見宴が催されてからと云う。「満月」ではなく少し欠けている部分があるからこそ、これからの望みを残した縁起の良い月ということにもなるだろう。昨夜はあまりに月が恋しくて、就寝前にも庭に出て大空を見上げてみた。しかし、やはり素晴らしい姿を見せてくれたのは日暮れから宵のうちだったのだと思い直した。一ヶ月前の記念碑的な十三夜の月も、まさに海上から知らぬ間に空に昇っているという自然の見事な演出ゆえに生涯の思い出になったのだ。陰暦9月、冬の月になる前に今宵と明日の満月までを楽しもうではないか。

月明かりの下で
夢儚い この世の果てまで
東に大海を抱く宮崎ならではの月の美しさがある。


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将棋崩し・積木崩し

2023-10-27
積み上げた将棋の駒を音を立てずに盤外へ
不良少女となった娘との200日間の葛藤描いた80年代作品
一つ一つを積み上げて崩れかけても望みを繋いで

小学校低中学年の頃まで、実家近くの商店街に2人の友だちがいてよくその家に遊びに行っていた。一人は裁縫店、もう一人は電気工事店で商店街の一角にそれぞれの家があった。車の交通量も多いため家の中で遊ぶことが多く、将棋や『百人一首』などを教えてもらう場でもあった。それぞれ本道の興じ方ではなく、「将棋崩し」とか「坊主めくり」をやるのが年齢的にもっぱらだった。「将棋崩し」とは盤上に山積みにした将棋の駒を音を立てずに指一本で盤外まで運ぶもので、多く駒を獲得できたものが勝ちとなる遊びだ。比較的大きい駒は運びやすく、大抵が「歩」の駒を運ぶ際に崩れる音が立ってしまうのが印象的だった。物事は大局が上手く運んでも、細部で問題が生じることがある。人生のささやかな学びが、そこにはあったと今にして思い返せる。

また70年代後半から80年代には、世相の影響か「不良」をテーマにしたドラマが盛んに制作されていた。『3年B組金八先生』などがその代表格だが、家庭内の親子の葛藤を描いたのが俳優・穂積隆信原作の『積木崩し』である。不良となってしまった娘に父親がいかに向き合うか、その姿はまさに小さな積木を重ねるようで、重ねて望みが出たと思うと些細なことで積み木は尽く崩れてしまう。もちろん崩すのはいとも簡単だが、積み上げるのは容易ではない。だが人はどんなに崩れやすい積木でも、今日の一つを積み上げるしかない。そして積み上げても細部が音を立てて崩れるかもしれないが、決して望みを捨てずに積み続けるしかない。肝心なのは「今日の一歩」である。将棋の基本もまさに一つの「歩」ではないか。連勝を続ける藤井聡太さんでも、最初の「歩」を慎重に打つことから全てが始まっている印象がある。人生を歩めば様々な音が聞こえてくる。それに囚われて悲観することなく「今日の一歩」を打つのである。

予想もしない箇所から音が聞こえる
焦らず目を逸らさず山を積み続ける
やがて必ずや「歩」によって到達点が見えてくるものである。


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声の推敲

2023-10-26
牧水の朗詠は一律ではなく短歌の内容で多様
「声」には様々な要素がある
〈教室〉の音読も声に出したものを推敲してこそ生きたものに

大手チェーン飲食店やコンビニ飯が多くの顧客を取り込むように、一律・規定・型通りが求められる世の中である。表面的には「多様性」などと言いながら、判で押したような横並びが好まれる証拠である。〈教室〉では毎日いつも同じような振る舞いが求められるゆえ、「簡単便利」でいつも一律なコンビニ飯のような「仮面」を纏い予定調和な己を演じている。その制御があるためか、「国語」の音読や「英語」のリーディングではほとんど無味乾燥な「のっぺら読み」しか為されないのが〈教室の声〉の実態であろう。「文字の文化」に侵食され過ぎたこの約100年で、我々は「声」にその場に合わせた表情があることを忘れてしまった。

日常生活での自律的探究的な思考を導く「言語活動としての音読」をどう考えたらよいか?附属小学校で行われた授業研究において、あらためて諸々と考えさせられた。物語の語りにおいて場面や登場人物の心情を読み取り、文脈に即した創意工夫により原作を読者として「どう読んだか(読みたいか)」を「声」によって遡及する言語活動が求められる。遡求の過程で「音読を工夫した根拠」を可視化させる必要があるのだが、その上で「根拠・工夫」が理論的に明らになっても、「生きた音読」にするためには「音声化」そのものを検証していく必要性がある。文章を書いたら「推敲」をするように、「音読」についても前提の理屈ばかりでなく「声」そのものを「推敲」するべきだと考えている。小説の語りには実に多様に場面を構成する要素が含まれており、「黙読」の読書では行き着かない領域が再生される場合があるはずである。

本文の「校異」から作品の文脈変化を批評する
「思考の型」を示しつつ高次元な表現へ向けた「型破り」を
授業そのものが「生きている」ことを実感する良質な機会の覚え書き。


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「包む文化」の中で心を開いて通じ合うために

2023-10-25
思いを素朴に伝えること
相手の立場で考えること
「包む文化」の日本でこそ開く喜びを

家族でも友人でも、「心が開いて通じ合う」と実感できるのは幸せなことだ。だが「心が開く」という状態になるのは、そう簡単なことではない。どうしても様々なわだかまりから、「本音を言わない」で済ましていることがある。それゆえに人は、食事や酒宴の場を設けることで次第に心が開くことを自ずから意図しているのかもしれない。「美味しい」という感覚は心を次第に柔らかくしてゆき、「酔う」ことから次第に心が大きくなっていく。「美酒佳肴」とは人が心を開くために開発してきた、大きな人類の発明かもしれない。

「オブラートに包む」「遠回しに言う」など、日本では「包む文化」がある。「裸銭」で渡すことに抵抗があり、お寺などでも本尊は姿を隠されていることが多い。和歌史を考えても『万葉集』の素朴で直接的な表現から、『古今集』以降の比喩的・婉曲的な表現が平安朝文化の中で育まれたのは、「包む」文化の源流として特筆すべきことだろう。封入された金銭を開ける期待があり、ご開帳となればその稀少性から仏の生きたご加護があるような気持ちになる。いわば「包む」からこそ、「開く」ことに「ありがたさ」を感じる心がある。ゆえに「包まれている」から「探り合う」のではなく、「開く」機会を意識的に持つ必要もあるのではないかと思う今日この頃である。

時に『万葉集』の語法が求められるときも
御簾・几帳・扇など平安朝の「包む」文化を考えながら
真に安心できるのは「心が開いた」時なのであるから。


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飛行機は飛んでいく

2023-10-24
風向きにより航路が大学や自宅の上に
騒音には感じず機体が飛ぶ姿のあれこれ
飛び立ったのか降りていくのかなど考えて

人は泳ぐことはできても、道具なしで飛ぶことはできない。それゆえか大空を飛ぶ鳥の姿を見ると、ある種の羨望感と劣等感の入り混じった思いとともに大きな野望を抱くことがある。ライト兄弟が初めて有人動力飛行に成功したのが1903年12月17日というので、まもなく120年になる。人類の歴史からすると空を飛んで長距離移動ができるようになったのは、それほど長い時間ではない。最近はドローンの利用が様々な面で進み、自らが飛ばないまでも自由な「視点」を得られるようになった。「鳥になりたい」という人類の野望は、徐々にかなりの域まで叶えられつつある。

宮崎から東京まで航空機なら概ね1時間半程度。かつて昭和30年代頃には列車で28時間は要したと聞いたことがある。ましてや若山牧水の時代なら陸路海路を利用して最低数日は要していただろう。この50・60年の歴史で我々はこんな便利を享受している。仮に28時間など1日以上の時間を要していたら、東京から宮崎に移住するという思いも現在とは大きな差異があったはずだ。風向きによるが、自宅や大学の上空を旅客機が飛ぶ姿を見ることがある。音のせいもあるが、見られる状態なら自然にその姿を見上げてしまう。車輪を出して飛んでいる姿を見ることもあり、着陸に備えて車輪分の空気抵抗で徐々に減速しているのだと云う。搭乗している時には感じ得ない速度感と推進力を、その機影より実感する。人は飛べることで何を得て何を失ったのだろうか?

60年×2ほどの歴史の中で考えてみる
比喩的に「飛んでみよう」と思うことなど
飛行機は飛んでいく。


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集う話す笑い合う

2023-10-23
まずは会えるか集まろうか
さすれば話す笑い合うが生まれる
孤独な一人ひとりが生きるために

一昨年出版した『日本の恋歌とクリスマスー短歌とJ-pop』(2021新典社選書108)は、人間が生まれながらにして孤独であり孤独に死を迎えるという逃れられない運命があるゆえ、常に出逢う人を「待つ」のだという普遍的な課題について考える一書であった。幼きから物心つけば親に出逢い、徐々に社会に出てゆき友と出逢い、やがて愛する人と出逢う。その都度の「出逢い」をどう活かせるかはその人次第でもあり、人との交流を大事にしてこそ人生の意味もわかってくる。同時に「サヨナラだけが人生だ」の佳句が云うように、「出逢い」があれば「別れ」もある。ゆえにやはり「出逢い」を大切にしなければならないという循環の中で人は生きる。

では「出逢い」を大切にするにはどうしたらよいか?その基本的な動詞が「集う話す笑い合う」ではないかと思う。それぞれの人の人生の節目に集う、ただ偶然に任せて一所に集う。集えば「話す」ことから相互の気持ちが溶け合い、自然と笑い合っている自分に気づく。こんな至極当然で普通な日常の場面こそが、「幸せ」というものなのだろう。何も「特別」は要らない、自由に普段着で利害に囚われず「話して笑い合える」のがいい。家族・親族でも親友でも、ただただこの「話して笑い合える」時間を忘れないことだ。秋晴れの宮崎で、この日はこんなことをつくづくと感じる日曜日であった。

母と妹の誕生月
家族が集うランチパーティー
そして夜は親友と偶然の出逢いが待っていた。


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何をするかとどう生きるか

2023-10-22
短歌作りにも必要なこと
「独自の発見」私だから見つけられたもの
「自分だけの表現」工夫して人に伝えるもの

なぜ日本文学研究をし国語教育についても考え、中高現職教員を長年務めたのちに大学教員になったのか?を自問自答しても簡単に答えを述べることはできない。実家が商家であったためそれを継ぐのか?何よりも研究や教育にはかけ離れた家で育ち、むしろ社会的な事情に適応した生き方を選択するよう母には教えられてきた。「教員」の世界にありがちなある種の「お山の大将世間知らず」にはなってはならない、とは思いながら教員になってしまった矛盾。もとより教員というよりも世間を知るために「文学」を学びたかったのがその原点であった。それゆえか今も短歌から多くの「人の生き方」を学んでいる。こうした意味で研究者や教員と比べるものではないが、歌人の方々は社会を繊細に深く見つめながら、「何を」と「どう生きる」を豊かに自己の内に持っていると思う。

どのような職種でも、働くことは尊い。人は働きによる何らかへの貢献度を糧に生きるものだ。家族のため組織のため社会のため世界のため地球のため。かの坂本龍馬は「私心があっては志と言わぬ」といった趣旨のことを述べたというが、「働く」をどう捉えたらよいか?は近現代人の永遠のテーマかもしれない。「働く」は「何を」に当たるのだろうが、それが尊いからといって「どう生きる」が歪んでよいわけがない。短歌一首が直立するように、「何を」と「どう生きる」を両立してこそ他者に受け入れられる生き方になる。人の生きるの場合、表面に出てくる場合と、外からはわからない場合がある。生きた短歌にするためには、「どう生きる」=「表現する技術」が大切なように、他者との対話を丁寧に積み上げながら独りよがりにならない生き方が求められる。家族とてそれは自らが伝えようとしなければ、伝わらないのだ。

あらためて自らのそして両親の生きるを考える
生きる積み重ねが今を作っている
この宮崎で考えねばならないこと。


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