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若山牧水没後95年ーその苦悩と仕事場

2023-09-17
詩歌雑誌の発行住所として
妻子がいる家から10分以内の下宿屋など
借金などの苦悩を抱えつつ自らの仕事場として

若山牧水没後95年、まさにその朝を迎えた。主治医の書き遺した診断書によれば、朝6時半頃に葡萄糖注射・日本酒100cc・卵黄入重湯などを朝食として摂るが、7時20分頃になり冷汗をかき脈拍が異常をきたし、家族・門人に見守られながら末期の酒に唇を浸らせつつ静かに眠るように息を引き取ったと云う。自らを自然の一部と考えていた牧水は、死を怖れることなくまさに自然に還ってから本日で95年の時を経た。それにしても生涯、一貫した短歌への情熱は並々ならぬものがあった。明治時代とはいえ「歌人」で身を立てるのは、そう簡単なものではない。父の危篤の報せがあった際も帰郷の旅費の金がなく、歌集原稿を出版社に強引に持ち込み金の工面をしているなど苦悩は尽きなかった。だが牧水は支えてくれる親友・知人を、心から大切にした。生涯の友・平賀春郊はもとより、先輩歌人の太田水穂、瀬戸内の島に住む三浦敏夫など、物心両面で牧水を支援した人々は少なくない。

歌人をはじめ物書きにとって、仕事場というのは実に重要だ。牧水は喜志子と結婚した数ヶ月後、父の危篤の知らせで坪谷に帰郷し後継ぎ問題で約1年間は東京に帰れずであった。その間に妻・喜志子は実家の信州で長男・旅人を産んだ。そして大正2年6月、やっとの思いで牧水は再び上京。小石川区(現文京区)大塚窪町に家を借りて信州から妻子を呼んだ。しかし、心労と発熱などで半年ほど牧水は体調が優れず、借金取りから逃れるとか赤児の長男の夜泣きなどから自宅近くの下宿屋に籠り仕事場としていた。かつて僕も現職教員として大学院に通う頃、実家の旧来の部屋が書庫としても有効なので、自らの住まいから通って論文を書き続けたことがある。個別の籠れる空間があるのは、物書きにとって誠にありがたい環境だ。現在、僕は大学研究室まで徒歩10分、昨日も市立図書館での教養講座を午前中に終え、午後からは研究室で原稿に集中した。原稿を進めるのは苦労と思う時がないわけではないが、基本的には物書きの幸せな時間である。自らの置かれる環境を思いつつ、牧水の当時の苦悩と幸福に思いを馳せている。

人は生活とか金のために生きるのではなく
自らに与えられた天命たる仕事を進めるために生きるのだ
95年の時を経て、いとしの牧水と自らを繋ぐ線を探し続けている。


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