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牧水のバトンー歌の朗誦性

2023-09-15
例えば、あなたはどのくらいの速度で一首を読むか?
概念ではない「古代性」を途絶えることなく
近現代化で失われそうなものを牧水は僕たちにリレーしてくれた

母の従姉妹にあたり僕も幼少の頃から大変にお世話になった方が、95歳の天寿を全うされた。訃報を知る前であるのに、先日小欄になぜかその「おばさん」のことを記した。たぶん前日に亡くなった「おばさん」が、宮崎に在住の母と僕に挨拶に来てくれたのだと思っている。母も「おばさん」の夢を見たと言う。牧水が亡くなった昭和3年9月17日、すでに「おばさん」はその時この世に生を受けていた。ただそれだけを考えても、牧水をさらに身近な存在として考えることができていた。僕らは与えられた命を全うすることで、前代から次代へと何かをリレーするのだ。僕は「おばさん」に心のあたたかさ・語ることの重要さ・自分の親戚ルーツを大切にするなどのバトンを受け取り、いま宮崎で生きている。2018年には宮崎にも来てくれた「おばさん」は、今も宮崎の空の青から僕たちを見守ってくれている。

牧水没後95年、「おばさん」の寿命と同じだけの時を経ていま、僕は牧水が渡してくれようとしたバトンリレーを受けるべく走り続けている。僕はなぜか牧水が歩き活動した縁のある東京の土地で、生まれ育った。それは新潟出身の母が東京に嫁ぐにあたり、「おばさん」という力強い相談相手がいたゆえに成り立っていたことなのだとあらためて思う。また牧水が「みなかみ町」を好んで2度訪問していたことは、僕が牧水からのバトンを受ける走者であることの証である。母と「おばさん」を始めとする親戚の「いとこ会」は毎年「みなかみ町」で開催され、30年以上継続したのだから。その場で引き継がれたことの多くが、僕の中には牧水からのリレーの要素も多分に含んでいたのだと思っている。新刊著書の副題は「短歌の朗誦性と愛誦性」、人は「聲」で繋がり交わり、「聲」こそが命である。「聲」を疎かにしている近現代人には、大きな代償があるかもしれない。ゆえに僕は『牧水の聲』を探究することで、リレーのバトンを確実に受け取ろうとしたのだ。

1928年(昭和3)辰年から世紀を生きる
「短歌は詠うもの」という牧水のリズム
さらなるデジタル化で失われようとしているものがある。


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