歌人・太田水穂の旧居
2023-09-14
若山牧水が東京で歌人として身を立てようとした時先輩歌人として頼ったのが信州出身の太田水穂
牧水が妻とする太田喜志子との縁や短歌雑誌の発行を後押しするなど
僕自身が「太田水穂」の名を知ったのは、確か小学校4年生の時である。馴染みの書店の棚に近藤冨枝『文壇資料田端文士村』を見つけ、どうしても欲しくなって貯金箱の百円玉を寄せ集めて買った記憶がある。当時にして確か¥2000円は超える書籍であったから、小学生には高い買物であった。買ってはみたものの内容をスラスラと読めるわけではなかったのだが、地図好きという趣向から冒頭に織り込まれた「田端文士村地図」をとことん読むのが好きになった。普段、歩き慣れた町内に大正・昭和期にこれほどの作家や芸術家が住んでいたとは。そしてまずは自宅周辺から次第に小学校との往復の道すがらにある、文人の旧居跡の地点を確かめるのが好きになっていた。確か課程内(授業枠内で行う自主研究活動)で「社会クラブ」を選び、そのまとめには「芥川龍之介旧居跡」についてレポートした。
このような環境において、芥川龍之介・菊池寛・萩原朔太郎・室生犀星など教科書にも掲載される可能性がある作家の旧居跡が「田端文士村地図」に記されているなか、なぜ「太田水穂」が僕の印象に刻まれたかというと、僕の実家に一番近かったからである。大正・昭和初期より道路の区画もやや変化していたが、「太田水穂」と地図上に示された地点は僕が産まれた産科医院の真向かいぐらいなのであった。それ以後、「田端文士村地図」には自宅の位置を赤鉛筆で記し、開けば常に「太田水穂」の名前が意識されたのである。たぶん小学生で「太田水穂」の名前を知っていたのは、当時の全国で僕ぐらいであったろうと思う。水穂が歌人であったことは当該書を読んで知ったものの、なかなか水穂の歌を読む機会には至らずだった。今まさにこの僕が小学生であった頃の課題を紐解いた時、水穂が少なからず東京に出て来た牧水に対して諸々の助言や支援をしていることを確かめている。これまさに僕自身に天命として与えられたライフワークなのだろう。
あの場所で僕が産まれた運命とは
水穂が上京して最初に住んでいたのが文京区茗荷谷付近
牧水の東京での足取りに深い興味を覚えている。
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