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送り出す愛ある心を忘れず

2023-05-27
家を出るときなら見えなくなるまで
今日の安全を、明日への希望を祈りつつ
とりわけ手術に送り出すのならば・・・

父の手術の当日となった。前日に病棟の看護師さん曰く「朝一番の手術ではないので、定まった時間がわかりません。11時半とか12時ぐらいに来ていてもらえば」確かに僕もその弁を聞いた。僕は諸々の仕事と講義もあるので、この日は病院まで行けない。母が一人でタクシーで病院まで、それも「言われた時間」に余裕をもって11時過ぎには到着したという。しかし、父は既に病棟から手術へと向かっていて会えなかったと母からLINEが届いた。父より前の方の手術が終わり次第という事情も理解はできる、だがどんな手術であっても家族の立会いがないままに敢行されるということには疑問をもった。僕自身が父であったら、きっと「妻が来るまで手術には行きません」と主張するかもしれない。こうした際、本人も家族も当事者は過剰なほどの不安に駆られるものだ。麻酔の加減、緊急に不測の事態に陥ったら、など想像は負の方向に拡大していく。

古典文学を読んでいると、一つの別れの機会を「今生の別れ」のように惜しみ心を交わし合う。旅に出れば常に旅先で生命の危険に曝される。日本語の「さようなら」というのは、どこか突き離す趣旨があってよろしくないと思うことがある。「See you(英語)」「再見(中国語)」のように「また会おうね」という趣旨が不足している。語誌を辿ると「さようならば」が中古中世頃より、その後「ごきげんよう」「のちほど」などの別れの表現と結びつき、近世後期に「さようなら」が別れの言葉として独立し一般化したと『日本国語大辞典第二版』に教えられる。そういえば東京で非常勤講師をしていた私立中高では、授業の開始時など日常から「ごきげんよう」という習慣が根付いていた。僕が家を先に出かけるとき、妻は僕が路地を曲がり見えなくなるまで玄関で見送ってくれる。僕もまた妻が先に車で出かけるときは、車が路地を曲がるまでかなり距離があっても見送るようにしている。「ごきげんよう」そして「のちほど」お互いに希望の明日と出逢って、また逢うためにである。

無事に父の手術は終わり主治医は「成功」との言葉を母に
教師はもちろんだが、医師・看護師など「師」たるもの相手の心の想像が重要
あらためて全学基礎教育科目の講義で医学部の学生たちに学んで欲しい大切な「心」である。


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