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手足を動かすのをやめませんー牧水の講演に学ぶ

2023-05-19
「(赤ちゃんは・中村注)一寸でも手足を動かすのをやめません、てう度それと同じで
 人々も心の生活に気がつけば即ち自分は心の奥底に生きてゐるのだといふことに
 思ひあたればその間に感じた事を外にあらはす力を望むものであります。」
(牧水の京城(ソウル)での講演から『朝鮮新聞』1927年6月11日記事・吉川宏志「若山牧水の朝鮮の旅(中編)ー京城ー『牧水研究』第26号2022年12月より引用)

1927年(昭和2年)の牧水・喜志子の朝鮮半島への旅について、前述の引用のように吉川宏志さんが諸資料に基づきながらその足取りや人との交流、そして講演などについて明晰に書き起こしており興味深い。中でも引用した京城公会堂での文芸講演会で牧水が語った内容は、短歌への向き合い方のみならず人間が生きる意味を実感させるものと思う。吉川の解釈の言葉を借りるならば「内部の生命の働きのために外界に興味をもち、体を動かさずにはいられない」のが「赤ちゃん」なのだと云う。講演には膝の上に赤ちゃんを抱いた方々も多く来聴し「あなた方の膝の上の・・・」と牧水は切り出しており、聴き手の理解と対話的な関係を結ぶ講演であることがわかる。

「自分の生命を感じているなら、外界に興味をもつはずで、それを言葉にせずにはいられなくなる。」さらに吉川の文章から前述の牧水講演の理解を示した部分であるが、「この力によって短歌は生まれてくる」と云っている。この理解は牧水短歌の身体性の証となる資料でもあり、短歌の根源的な文芸性を解き明かした内容として読むこともできる。人は生きている限り、「感覚の手足」を動かし続けなければならないのだ。その「手足」は五感のあらゆるところにあり、「赤ちゃん」のようにその動きを止めてはならないのだろう。眼ではみえないものを耳で捉える、手ではさわれないものを鼻で受け止める、さらには五感の複層的な実感が短歌の「表現力」と牧水は考えていたのだろう。旅を歩き続けた牧水、まさに純粋無垢に「手足を動かし続けた」ことが理解できるのである。

「然し乍ら案外朝夕食を食べて小便をしてゐながら
 この生きてる事を感じない人が澤山あると思ひます。」
(前掲・牧水の講演より・同上より引用)


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