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人はことばを学び続けるー「国語」という呼び方の背景

2023-04-20
生まれて育つ環境で「母語」を学び
学校等で学ぶことで「母国語」が意識されてくる
「国語」で何を教えるかを自覚するために

「国語」という呼び方が制定されてから、今年で「123年目」となる。明治33年(1900年)新たに「学制」が公布され、学習科目としての「国語」が定められた。その後、大正デモクラシーの民主主義運動の時代や、第二次世界大戦後の大きな社会変革も乗り越え「国語」という呼び方は生き続けている。だが「国語」という言い方には、幕末から明治維新で問題として浮上した統一した「国家形成」のための思想が根本にあることを忘れてはなるまい。幕末では藩ごとの「お国言葉」によって、他藩の者が相互理解できない事態が常態化していた。それを誰しもが「普く通ずる語」とすべきと「国語」が制定された訳である。よって「国語」という統一化には、もとより少数言語排斥や「共通語(その時の政治的中心地の場合が多い)」の強制という抑圧が根付いている。

戦後78年目、1900年を基点とし1945年(昭和20)終戦を境とすると、遥かに長い「戦後」が続いている。今でも疑いなく「国語」という教科は存在し、小学校ではどの教科よりも多くの授業数が設定されている。また国際化の波も大きく、今や学校には「日本語」を「母語」としない児童・生徒も多くなった。因果関係があるかないか検証したこともないが、「国語」で行われる学習活動には従来から「強制・抑圧」を伴うものが少なからず存在する。漢字学習・音読活動・感想文などがその際たるもので、誤りを有無を言わせず否定的に修正されたり添削されたりする。「母語」獲得の際に母親などとの交流で自由に主体的に言語を獲得するのとは、正反対な教え込みを受けるケースが未だに多く見られるのはなぜか?などという背景が「国語」にあることを、将来教師になる学生には十分に理解しておいて欲しいと願う。

久しぶりの担当科目「国語科教育法」
機材が上手く投影されない時に学生さんの優しさに助けられながら
そして「個別最適」と「音読・朗読」をいかに結びつけるか?共同研究が動き出した。


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テーマ詠「学校」ー宮崎大学短歌会4月歌会(2)

2023-04-19
誰しもが長年の経験を持つ
児童生徒としてどんな体験をしたか
意外な驚きのエピソードなども

朝から1日先の授業準備・講義・移動・附属学校園での会議・移動という隙間のない予定をこなし、1日の締め括りが宮崎大学短歌会歌会という1日。開始時間に30分ほど遅れたが、附属図書館の1室にいつものメンバーが揃っていた。今月は新入生歓迎を意図し、毎週火曜日に定例で歌会を開催している。前の日曜日に「新歓祭」が催されこの日は新入生の来訪も期待できたが、思うほど簡単なものではなかったようだ。世に云う「短歌ブーム」に学生たちの意識は、どの程度呼応しているのであろうか?引き続き、短歌関連の僕の授業などからの勧誘も含めて期待していきたい。さて歌会は出詠8首・参加8名、テーマ詠「学校」について興味深い対話が展開した。誰しもが持つ標準的な「6・3・3=12年」の学校経験、何をどのように素材にするか?自ずと現実の経験を素材にする歌が多くなった。

「新入生」「転校」「早弁」「校長」「追試」「黒板」「理科実験」「ペン」などが素材、いずれも「児童・生徒」視点が主体である歌であった。もちろん僕の場合は20年以上の現職教員経験があるのだが、むしろ自らが高校生の頃の経験を素材にし学生らの歌と並列的になるようにした。対話の中ではむしろ「教師視点」を導入することで、「学校」の二面性が浮かび上がるようで立体的な議論を提供できたように思う。「学校」は小さな「社会」に他ならない。されど「小さい」ながら独特の世界観がある保守的で特異な空間であろう。思いもよらぬ過剰な「悪戯」を描いた歌が「予想だにしないわからなさ」を武器に高点歌となった。また「学校」には偽善的な行為を「学習」の名の下に敢行することがある。「命の尊さ」を教えながら植物を実験に使用する矛盾が詠われた歌に、「学校」の抱える矛盾が透けて見えた。

テーマの核心や矛盾を暴き出す短歌
僕らにとって「学校」とは何であろうか?
次週こそは新入生の顔が見たいものだが果たして・・・


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ゴールを決めてスッキリ集中

2023-04-18
時間をかければ良くなるわけではなく
受験勉強の頃から「集中」のための「ゴール」
休憩にはご褒美を忘れず!

新年度授業も2週目に入った。単に講義の準備のみならず年度開始にあたり新たに開かなければならない諸事の事務的な仕事が多く、双方を上手くバランスをとって進める必要がある。「授業」は時間割の中で待ってはくれず、事務仕事の先には委員会構成員などが控えている。教室で学ぶ学生の姿、そしてまた会議に出席する方々の顔を思い浮かべ、仕事を進めているような日々である。こうした際に心掛けたいのは、仕事の「ゴール設定」である。「何時何分までに終わらせる」と決めることで「集中力」が増すのである。昨今はスマホなどの誘惑が多くなった社会で、「タイムプレッシャー」はさらに意識すべきだと思っている。

大学受験勉強をしていた当時、旺文社の受験雑誌『蛍雪時代』を愛読していた。そこには教科内容に関わることも掲載されていたが、「受験勉強法」のような情報も多かった。単語はダラダラ学習するのではなく、「15分1セット」と限定的な時間の中でこそ覚えられる。時間枠としてはさらに「30分1セット」「45分1セット」などの学習作業時間単位を設定する。例えば、古文読解なら「30分枠」とか英語長文読解なら「45分2セット」とか、学習内容で単位とセット数の組み合わせで「ゴール」を決めて学習する。すると自ずと試験でも「時間内で回答」が可能な頭になってきてとても実戦的であった。この方法は現在そのまま大学での講義に活かしており、90分の講義を「6分割」し「15分6セット」の課題設定をする。「15分」の中でも「説明を聴く」時間と「他の受講生と対話する」時間とに分割し、多様な頭の動きができるようにしている。

「1講義100分」になったという研究者仲間の投稿を見た
真っ直ぐな道を歩むだけでは自動車の運転でも眠くなるものだ
「小さなゴール」に達成感を持たせ、間の休憩にはスマホなど最大限の自分へのご褒美を。


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ChatGPTそして「寺山修司ー情念の反動化への挑戦」

2023-04-17
AI(人工知能)が生成してくれる文章
「答え」を導く「計算性・合理性」として優秀
そして観た映画「日の丸ー寺山修司40年目の挑発」

いまあなたが読んでいるこの文章、一定の人間たる執筆者が書いていると確信が持てますか?もしかしたら、AI(人工知能)がテーマの情報を合理的に集積し瞬時に書いているのだとしたら、小欄の価値や読もうとする意欲は萎えますか?「ChatGPT」とは、「言語表現の生成可能な事前学習済み変換器」とでも言ったらよいだろうか。質問を入力すると幅広い分野の回答を人間らしく自然に感じられるように生成できる人工知能で、昨年の11月に公開されいま様々な分野で話題になっている。例えば、我々が大学講義で課すレポートなどもかなりの質の高さで生成されると、実際に試してみたという同僚に聞いた。データ集積・計算性・合理性では、既に人間レベルかそれ以上である可能性もある。「AI(人工知能)」の活用など未来の話と思っていると、既に開発・公開・拡散の速度は我々の予想を超えて進化している。果たしてこれから先、僕らはこの進化に対応していけるのか?大学の学び一つを考えても、早急な対応が必要に思われる。

昨日の午後は「日の丸ー寺山修司40年目の挑発」というドキュメンタリー映画を観た。1967年に「日の丸の赤は何を意味していますか?」等の挑発的な質問を街頭にて、ある意味で「情念」を交えず機械的にくり返す様子をそのまま伝えるTVドキュメンタリーがあった。放送直後から抗議殺到、「偏向報道」だと閣議でも問題視された曰く付きの番組である。それから55年経った現在、同じ質問を街頭でくり返したら何が見えてくるか?双方の映像を交錯させながら、まさに「国家とは?」「日本人とは?」を問い掛ける現代に蘇る「挑発」の作品といえるだろう。67年当時の番組に関わったのは寺山修司、僕の場合はその短歌に喩えようのない「格好よさ」を感じるが、文芸に限らず、脚本・エッセイ・評論・劇団主宰など数限りなき才能を発揮したマルチな思想・表現主体である。没後40年となる寺山が、現代においても何を我々に「挑発」してくるのだろう?このドキュメンタリーの単調で本質的な質問は、インタビュアーをChatGPT化したような印象を持った。だが答えるのは錯綜した社会を生きる生身の「我々」なのである。突然に問われることで「自己」と「国家」とか、「自己」と「外国人」などの隙間の渦に溺れそうになりながら「反動化」の作用を引き摺りつつ答える「情念」を持った一人の「民衆」が映し出される。それは奇しくもChatGPTが提供する「計算性・合理性」に対して「反動」的な「共感・愛・情動」の機微を浮かび上がらせているようにも見えた。寺山は果たしてAIなどを想像し得ていたのか?この時において出逢った映画として、自らの情動の揺れを挑発された思いである。

1964年東京五輪・ベトナム戦争・1970年大阪万博
2021年東京五輪・ウクライナ侵攻・2025年大阪万博
この55年の相似形において、僕たちは過去にはなかった人工知能にも向き合っている。


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一日を動く身体の準備&鎮静

2023-04-16
朝のストレッチをして
筋肉と関節の可動域を広げる
夜は風呂上がりに筋肉を鎮めていく

新学期授業開始の1週間、新入生など新たに出逢う学生たちとの緊張感を楽しみ週末を迎えた。どうしても神経を使っているのだろう、土曜日の朝はゆっくりと寝た。前の晩も早く寝たので睡眠時間は過剰なぐらい、起床が遅くなると朝のルーティンが通常の順番でできなくなるのが不満でもある。小欄を記しWebで情報を観たりしていると、あっという間にお昼時に近づく。その流れで母と買い物に出かけ、大きな荷物を持つなどして帰宅した。直後に床にある鞄に財布を戻そうとすると、左臀部に嫌な張りを感じた。幸い腰全体には及ぶものではないが、誠にこの感覚は嫌なものである。その瞬間に朝のルーティンであるストレッチポールとコアトレに下半身中心のストレッチを怠っていたことを悔やんだ。

身体は1日の活動に入る前に、十分な「準備」が必要だ。若い頃は筋肉も柔軟だし、筋力が補ってくれていることもあった。だがやはり年齢とともに、筋肉や関節の「準備&鎮静」が必須であると最近は思う。朝20分の「準備」に加えて歩く「20分」、これが1日を活動するための身体を整える。そしてまた風呂上がりのストレッチも必要なことを痛感する。寝入る前に明日のための筋肉&関節を「鎮静」させることだ。入浴で温まった状態で各所を伸ばすのは心地よく、寝床に入る前の体温調節にも有効なように思う。イチローと翔平とMLBを席巻する選手らは、明らかにこの「準備&鎮静」に十分過ぎるほど気を遣っている。もちろん筋肉の質も違うのだろうが、僕ら一般人だからこそより以上の気遣いが求められるのかもしれない。

今日を生きるための身体
義務感ではなくしなやかに動くために
硬直したものこそ脆弱であることを再認識する。


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お湯割りは楽にこころを溶かし合う

2023-04-15
牧水が酒好きだった理由
僕が宮崎で覚えた焼酎お湯割り
楽に人と人とがこころを溶かし合うために

若山牧水は「あくがれの歌人」であると、研究第一人者の伊藤一彦は云う。「いま此処」から「離(か)れる」、人が生きている「いまの瞬間」から新たな世界へ前向きに飛躍し離れていく。現状に留まっていては、細胞が新陳代謝を失うように枯れてしまう。この「あくがれ」の精神で牧水は「旅」をし、「恋」の世界に没入し、そして「酒」を愛したということだろう。短歌雑誌の編集などを中心に「人との繋がり」を大切にした牧水。旅に出ても酒席を断ることなく、人々との交流に「あくがれ」た。最期は「肝硬変胃腸炎合併症」と医師の診断書があるが、言い換えれば牧水が身体を賭して人付き合いを重視したと言ってよい。俗に「一生分呑んだ」という言い方があるが、牧水は「一生分の人付き合いをした」ということだろう。

牧水が好きだったのは日本酒、大阪は伊丹の銘酒「白雪」などを特に好んだと歌にある。もちろん僕も母の故郷・新潟の日本酒を始め好きではあるが、「郷に入れば郷に従え」で宮崎に移住してからはもっぱら焼酎を嗜むようになった。それも「お湯割り」というのが基本である。東京では「ロック」か「水割り」を常道とする人が多いが、10年前に宮崎に来た当時、カウンターの隣の爺さんに「にいちゃん焼酎はお湯で呑むとよ」と教わって大ファンになった。親友曰く「お湯割りが楽とよ」という理由だ。元来が20度焼酎(東京などに出回るのは25度)の多い宮崎でお湯割りにすると、アルコールとともに一緒に呑んだ人と「こころを溶かし合う」ような感覚になる。地元大手焼酎メーカーは、そんな趣向のCMも流すが「あたたかい人柄」と「焼酎お湯割り」というのは誠に整合性があるということだ。酒はどうしたって「身体に悪影響」という論文が英国で発表されたと聞くが、人付き合いなき人生を生きてどうしようというのか。

「お湯割りに笑顔溶かせり人付き合いあくがれなくして何のたのしみ」
親友ともゼミ生ともこころを溶かし合う時間を
溶け合うこころにこそ生きる糧がある。


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語り合うちからー対話による理解のために

2023-04-14
「聞くこと=理解」という静寂な授業
否、聞いただけでは真の理解に至らず
話すちからで理解を自分自身のものに

「静粛」従来は教室でも図書館でも、この姿勢が日常であった。授業であれば先生の話を静寂に聞く、話をせず黙りに黙って集中してこそ理解が高くなると信じて疑われなかった。図書館であれば「静かに独りで本を読む」、それが何より知識が得られ学ぶが進むと信じられていた。だが果たしてその常識は本当に「常識」なのだろうか?そんな疑問から、授業は「喋る時間」であり図書館は「語り合う場」になりつつある。授業で学ぼうとする知識は、殻に籠って習得するのではなく、他者と語り合う対話活動があってこそ真に自分のものになる。図書館で調べる課題は、書物で調べつつ語り合うことで自分たちの発想に有効に活用できるようになる。

「語り合うちから」は講義やゼミでは必須の活動としている。例えば、「古典を読む意義」についてもまずは個人思考をする時間を取り、その後は他の受講者と語り合う対話の時間を取る。その後は語り合い班ごとに出てきた話題を紹介して全体に共有する。個人思考の際の考え方に班別の語り合いや全体共有で得られた他者の考え方を融合して、最後は今一度自分自身と語り合い講義レポートを仕上げる。概ね講義は、このような流れで展開する。ゼミでも僕自身の指摘だけに終わらぬように、他のゼミ生との対話によって自身の発表内容がより深く自覚され新たに気づくことも多くなる。もとより原始の農耕・狩猟生活の頃から、人間の知恵というのは「協働」によって高められてきたはずなのだ。

声に出すー他者と語り合う
「井戸端会議」にはお互いの活性化があったはず
「黙せず、語り合う」物事は風穴を開けずして豊かにならない。


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分業分担と投手のロマン

2023-04-13
完全試合の可能性を残しての投手交代
中継ぎ・抑えという投手の分業分担という発想
異分野融合という複合新領域が求められる時代に

朝一番で非常勤先の今年度初授業、新たな学生たちとの出逢いが新鮮である。非常勤の仕事は単に専門分野の分担というよりは、自らが教えることの相対化にもつながる。多様な対象に向き合い、どのように学生の資質・能力を伸ばすかが自らに問われているからだ。このような意味で中高をはじめ様々な教育の場を経験してきたことが、大いに役立っている。また研究分野においても「文学」「国語教育」の大きな分類二分野の業績があるため、双方に対応することができる。相互を「教材研究」という視点で高め合うこともでき、この「二刀流」は「教員養成」というフィールドにおいて大いに追い風となってきた。分業分担し細分化されてきた研究分野は、いまあらたに融合的な「二刀流」が求められているといえよう。

午後の会議を終えて帰宅し、夜は「巨人対阪神」伝統の一戦をBSTV中継で観た。阪神のプロ3年目・村上頌樹投手が7回終了時までパーフェクトピッチングをしている。得点は0対1で阪神リード、まさかとは思ったが8回表の攻撃で代打が送られ、完全試合の達成は監督の方針かチームの勝利が優勢される状況を目の当たりにした。だがむしろ交代が裏目に出て、8回のマウンドを託された石井投手が巨人の岡本選手に本塁打を打たれ村上投手の勝利投手の権利さえも消えてしまった。すべては結果論であり1点差で勝つための戦術であるとは理解しなくもないが、素人目にもどうせ打たれるなら村上投手が打たれた方が潔いような複雑な感情に揺れ動いた。(結果的に阪神が勝利を収めたが)現代の野球は「先発完投」は過去のものとなり、「中継ぎ・抑え」と分業分担が確立している。その「方程式」にこだわり過ぎるあまり、「夢」へ意志を繋げなくなっているのではないか?TV解説の江川氏も「確かに球威が落ちてきている」と指摘していた。だが昔ならば、その状態でも投球内容を工夫して9回まで(打たれるまで)投げたはずだ。「投手が投げ切る」というロマンを蘇らせる試合があってもよい。

「文学研究」「評論」「創作」
明治の学者はいずれの分野も投げ切った
ベーブルースへの回帰である大谷翔平のロマンはあまりにも偉大だ。


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テーマ詠「夢」ー宮崎大学短歌会2023年度歌会始

2023-04-12
新入生歓迎の方針なども
短歌ブームに乗じて期待する新歓
奇っ怪な願望とか文明批判なども

火曜日3限は基礎教育科目「日本の恋歌ー和歌短歌と歌謡曲」の日である。今年度も全学部から100名を超える受講生が登録しており、講義棟で最大容積の教室を配当していただいている。コロナ禍にあったこの3年間も、様々な工夫を凝らして講義内容の質を保ってきた講義である。今年はさらに「短歌ブーム」という社会現象もあり、受講生の期待が対面講義の視線に表れているように感じる。「短歌ブーム」といえば、短歌会の新入生歓迎も楽しみである。この日は既存のメンバーを中心に、新年度の歌会始。新歓の方針なども話し合われ、7首の歌に対して家庭的な対話が進む時間であった。

テーマ詠「夢」、過去の夢・文明進化への疑問・時間移動・闘争本能・土と茶碗・まどろみ・巨大化などを素材とし、「夢」とは何かをあらためて考える機会にもなった。映画やヒーロー番組に見られる「悪と闘う」という図式は、過去ならば時代劇のチャンバラから宇宙闘争映画まで時代を問わない本能的な「夢」なのだろう。また『ガリバー旅行記』を思わせる巨大化という願望も「夢」に現れることがある。建物を「擦り合う」という発想は奇っ怪でもあるが、ユーモアがあって豊かな人間の想像力を思わせる。特に近現代150年は、多くの「夢」を現実化してきた。その反面、人為的に取り返しのつかない破壊や加工をしていることも少なくない。真に人類が求めるべき「夢」とは何か?そんな思いも抱きながら附属図書館を後にした。

次週の日曜日が新歓祭、
さらに今月火曜日は毎週が歌会
新たに出逢えるだろう新人の夢を学生たちと見ている。


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授業と伝わる声の身体

2023-04-11
授業開始
マスクは任意にもちろん対面
くぐもり声を脱し「伝わる声」を取り戻そう

今年度前期の授業が始まった。プロ野球選手なら開幕を正月のように祝うというが、せめてクリーニング上がりの春のジェケット+パンツに新調した靴を履いて大学に向かった。何事も初日の「始まり」には、あらたな出逢いへの期待と緊張が入り混じるものだ。入学式から1週間の新入生、月曜最初の授業は1年生「国文学講義」。「自己紹介」に加えて「これまでの古典(古文)との関わり」についてメッセージを添えてもらった。国語専攻であるゆえだろう、『百人一首』や「論語』の一節を暗唱できる者もおり予想以上に「古典に親しみ」を感じている印象であった。

連続して2年生科目「国語科教育法基礎」、1年間大学で学んできたのちに初めて「教科教育方法論」を学ぶ講義である。「知識・技能」のみならず、「国語を教えるとはどういうことか?」について深く思考し表現してほしい。さらには「国語教師」になるための「意欲・意識・矜持」を持ってもらいたいと、もう一名の担当者と様々な仕掛けを考案している。この双方の講義でそれぞれ教室で学生たちに話してもらったわけだが、任意となったマスクはほとんどの学生が着けている。それはそれとして個別対応として尊重されるが、〈教室〉の中にいる者全員にまで「伝わる声の意識」そのものが退化していないかと不安になった。3年間の公の場でのマスク生活が、口腔の開閉を小さく抑え明瞭な発声に支障をきたしているように思う。「国語教師」に限らないが、これからは「〈教室〉の声を取り戻す」ことも講義での重要な目標になりそうだ。

講義とは「文化を伝承する機会」でもある
何よりも学生たちのために教員養成の僕ら教師にできること
明治から155年目の今年、あらためて声と表現する身体を取り戻す。


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