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卒業式への思いー「発達段階の移行の完遂」

2023-03-25
通過儀礼としての「卒業式」
学びの集約とその後へ引き継ぐ思い
「心の故郷」と思われるように学生に向き合えたか?

所属大学の卒業証書授与式が、フエェニックス・シーガイア・コンベンションセンターで挙行された。近々にこの会場では、「G7農相会合」が開催される国際的基準を満たした場所である。東京にある大学が武道館などを借りて挙行しているのを考えると、決して引けを取らないかむしろ豪華な会場と言えるかもしれない。学生たちにとって一生に一度の時間にあたり、このような場所が用意されるのは誠にありがたいことだ。毎年のように小欄にも書いているが、僕は卒業式に特別な思いを持っている。自らの小学校・中学校・高等学校・大学・大学院修士・博士号授与式と自らは人生で6回の「修了」の儀式に臨んだ。だが高等学校については、大学入試日と重なり欠席をせざるを得なかった。そんな意味で高等学校での締め括りや引き継ぎの記憶や思いが曖昧で、心に特別な思いを抱き難い。「卒業」という事実は何ら変わらず、いただく「証書」にも変わりはないのだが、やはり「通過儀礼」の一つとしてその場にライブで臨席することの意味は大きい。

「通過儀礼」とは辞書によると「人が生まれてから死ぬまでに経過する、誕生、成人、結婚、死亡などに伴う儀礼」(『日本国語大辞典第二版』)とある。さらに「ユング心理学」によると、「イニシエーション」と呼ばれ、「『死と再生』のテーマが、原初的な無意識のイメージ(元型)として人類に共有されており、これが発達段階の移行を完遂させる役割をもつ」(『有斐閣現代心理学辞典』)とされる。この考えに拠るならば、学びの「発達段階の移行の完遂」を確かめ合う儀礼として「卒業式」は大変に重要だということになる。このような面が意識化していた大学・大学院の「学位授与式」としての意味合いは、僕自身にとっても大変に大きかった。その「儀式」に参列したことで初めて「母校が母校になる」ような感覚となり、「心の故郷」として燦然と自らの精神史に刻まれるのだ。このような意味で、新型コロナ感染拡大で普通に挙行できなかったこの3年間にも「儀礼」としての思いだけは届けたいという大学教員としての強い思いが僕にはあった。参列は卒業生と教職員に限られたが、華々しく着飾った卒業生らとともに僅かでも時間が共有できたことに、この上ない喜びを覚えるのである。

自らが4年間をいかに指導してきたか?
ゼミの学生たちの独り立ちの日としての喜び
学生生活の四分の三がコロナの影響を受けた学生たちがその思いを未来へ繋げる。


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