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「卒論」によって育むものは

2023-02-15
ただの卒業のための単位ならず
課題発見・探究・調査・実践・見解そして積み重ねの努力
「学士」として「教員免許取得見込者」として

文学部出身だからであろうか、「卒論」にはひとかたならぬ思い入れがある。あの頃の苦労と努力の積み重ねは、今も僕自身を支えていると思う。指導教授の厳しさと温かさが身に沁みて、その影響で迂遠したかもしれないが同じ職業に就いた。当時はPCなどなく「手書き」による制作であったため、清書ではペンだこを潰しながら3日3晩、意識朦朧としながら書き続けたのも今ではよい思い出であり心の糧である。30代になってからの修士論文ではPC使用が導入されたが、むしろ画面を見続け過ぎて首が回らないほどの肩凝りに見舞われ、近所の接骨院の先生なくして書き上げられなかった。博士論文は年次の雑誌論文の積み重ねであったため、むしろ苦労は分散型であった。だが公開審査の際、4名の審査の先生方からの厳しい質問は生涯忘れることはない。というわけで、自らがどれだけの価値をもって取り組んだか、その経験によって後の仕事の基盤になる資質・能力になっているか、という点を重視して今は学生たちの「卒論指導」に取り組んでいる。

動物たちが産まれて初めての経験に「親」の存在を本能的に認識するように、大学教員としての「初卒論指導」は実に大きな経験であった。大学院指導教授の急逝による代講として、そこで向き合った学生たちとは既に15年ぐらいになるが、今もオンラインも活用し毎年恒例で飲み会を開いている。彼らの自主的自立的な対話と探究の姿勢は、僕の中で一つの基準となって「卒論指導」で「求めたい姿」になっている。僕の指導教授がそうであったが、自らの考えを押し付けるのではなく、学生個々が主体的に学び合う対話を聴きつつ肝心な点を舵取りする姿勢を僕も貫いているつもりだ。指導教授が一対一で自説を述べれば、学生の卒論は「二番煎じ」に過ぎないものとなる。いかに学生自身の「個性」を立たせつつ、穏当な方向へ導くか?「個」で考え込んだ独善的な内容から、いかに客観的な根拠により説得力のあるものに仕立てるのか。この日は講座4年生の卒論発表会が開催された。諸々の思いを込めて、学生たちに丁寧に質問する自分がいた。

「卒論」は一日にして成らず
どれだけの時間と書籍と経験に寄り添ってきたか
教師として現場で仕事をするための多くの要素が育まれているのだ。


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