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「知識」がないと「声」は出せないか?ー「ことば」が作るイメージ

2023-02-06
「やまとうたは人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。」(『古今集』仮名序)
「感情」と「ことば」の関係、植物を見る際も表面にあるのは「葉」であり「種」にあらず
「知識」から抜け出せない「国語」学習習慣の弊害か・・・

2月12日(日)に宮大まちなかキャンパスにて、「群読フェスティバル」が開催される。その準備段階としてのワークショップ2日目を、この日は附属図書館にて開催した。アドバイザーに詩人の藤崎正二さんをお迎えし、新たな参加者も加え遥か日向灘を望める「板の間」は活気に溢れていた。前回同様に参加者は「群読ネーム(呼び名)」を胸に表示して、開催中はこれで呼び合う。その名を覚えるための「山手線ゲーム」を終え、「感情表現伝言ゲーム」へと進む。次第に打ち解けた参加者は、来週にはアドバイザーとして東京からお呼びする真山知幸さんの「文豪のことば」を表現する時間へ移る。ここで提示された「課題」は、「文豪のイメージを考える」というもの。「漱石・芥川・太宰」などの持つイメージを話し合う時間が持たれた。さあ、果たして僕たちはこの作家たちにどんな「イメージ」が持てるのだろう?教科書で一度は学んだ作家、よく「国語」の授業で「略歴」などを参考に、「この作家はこんな人物だから、こんな作品を書いた。」という趣旨が顕然と語られる。だが、果たして「人物略歴」が「作品(内部の表現)」にどれほど関係と影響があるかは、あくまで「誰もわからない」命題ではないのか?

「教科書教材」においては特に、「太宰治は・・・な人だった」(『走れメロス』学習時)「清少納言は・・・な人だった」(『枕草子』学習時)というあたりが、極端な偏りを持ってどちらかというと否定的に語られるのである。だがそれは真の教材理解に、どれだけ貢献しているのであろうか?作品を読む前に仕掛けられてしまう偏向した作家イメージによって、表現の真に潜む作品の核心をむしろ見逃す結果になりやしないか?「女好きがなぜ信実と友情の物語を完結させるのか?」とか、「自慢ばかりの知ったかがなぜ平安貴族の豊かな感性を集約的に表現できるのか?」などという矛盾と説明し難い疑問の渦中で、作品すら好きになれない「国語授業」の現状については、明らかな是正が必要なのだと考えていた。そう!我々は「作品(教材)」内部からしか、実は作家イメージを描けないにもかかわらず、顕然としているかのような「イメージ」ともいえない「(学校)知識」を強制的に「授業」で植え付けられているのではないか?「朗読」という学習活動そのものを実践する際もそうなのだが、「理解(した知識)」がないと「表現(声)」にできないという誤った考え方が横行するケースが多い。「ことば」の表現は決して「知識」のみで成り立つものではない。むしろ「ことば」があるからこそ「感情」や「イメージ」を持てるのである。それは短歌を読んでみれば明らかなのである。僕たちは「歌人の情報(知識)」がなくとも、短歌の「心(核心)」を読み取ることを楽しむのだ。むしろ「知識」に偏れば、浅い読みに終始してしまう危うさに曝される。歌会を「無記名」で実施するのは、こうした背景があることを確認しておきたい。

「一篇の詩」は「感情」の混沌とした浮遊物のようなもの
「区切られ整理された知識としての感情」に左右された読みは浅い
さて、いよいよ次週、このイベントの最終段階が楽しみである。


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