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宮崎大学公開講座「牧水をよむ」第2章「牧水の孤独」その1

2022-10-23
ゲスト講師:伊藤一彦先生
第二歌集『独り歌へる』(明治43年1月1日出版)
「いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのさびしさに君は耐ふるや」

後期公開講座が開講し第1回を迎えた。前期に引き続き「第四土曜日」、ゲスト講師に伊藤一彦先生をお迎えし4回シリーズで1月までお送りする。前期の後を受けて今期は牧水の第2歌集『独り歌へる』第3歌集『別離』をあたらめて読み直していく計画だ。第1歌集『海の聲』によむことのできた、恋愛が結ばれた高揚感と相手への疑問や不安感。「結ばれた」とはいえ、恋愛はそこから苦悩が始まるといってよい。前期公開講座記事にも書いたが、今でこそ牧水の恋人・小枝子の複雑な境遇を僕たちは知っている。だが歌集出版当時は、牧水の恋愛の相手が誰だかも明かされるはずもない。決して第二歌集までは好調な売り上げではなかったわけだが、牧水が短歌に刻み込み普遍的な人間の苦悩を描くことは。次第に当時の若い人々に受け容れられていったのだろう。明治43年といえば、当時の若手歌人の多くが歌集を出版した当たり年だ。前田夕暮・与謝野鉄幹・土岐哀果・吉井勇・石川啄木など、今にして名の遺る歌人たちの歌集が目白押しだ。伊藤先生の指摘では、現在においてSNSを通じて若い人が短歌を発信し、比較的に簡易に歌集が出版できる状況と類似していると云う。「SNS」はさながら「文芸雑誌」、牧水が中心になって雑誌『創作』を発刊したのも明治43年であった。

「とこしへに解けぬひとつの不可思議の生きてうごくと自らをおもふ」永遠の「不可思議」であると牧水は自らの「生きてうごく」ことを思い詰める。自己存在のわからなさ、若さにあって誰しもが覚える「自我」への向き合い方、自己承認の壁。さびしさに向き合い恋人との逢瀬があったものの、相手と自らの「さかひ(境)」には「一すぢの河」があると云う。「杜鵑(ほととぎす)」の声に触発され、さびしさはさらに増し「涙とどまらず」「一滴(ひとたま)のつゆより寂し」と詠う。大学を無事に卒業して帰省すると、父母の髪は「みな白み来ぬ」を目の当たりにするが、それでも「子はまた遠く旅をおもへる」と故郷に留まれない自分を客観的に詠む。恋人とはいっそ結婚してしまおうと思い詰め歌には「わが妻」と表現し、新婚の家まで用意するがそこに恋人は来ない。「男二十五」の若さならば「あるほどのうれひみな来よとおもふ」と孤独と苦悩を自虐的に受け容れようとする表現も見える。そして「あめつち(天地)」という宇宙の母胎の中に存在する自分を、歌表現で確かめようとする。「ひとり」という語彙使用も甚だ多く、何にも囚われることのない「ひとり」を楽しむかのような境地を、牧水は歌によって発見したのであろう。この孤独の苦悩がなかりせば、牧水はここまでの歌人になっていなかったと伊藤先生の見解が印象的であった。

「あめつちに独り生きたりあめつちに断えみたえずみひとり歌へり」
話題は恋愛とは孤独とは、現代社会が抱える恋の問題まで
牧水は現代の社会においても諸々のことを考えさせてくれるのである。


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