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うたのジェンダー「男歌」「女歌」と古典和歌

2022-10-09
和歌文学会大会「うた/絵/物語」シンポジウム
詠歌主体(作中主体・詠作主体)
作者としての歌人と実像としての絵のことなど

3年ぶりに対面+オンライン併用で開催された和歌文学会大会。「3年ぶり」というさらに2年前、2017年10月21日22日には宮崎で大会を主催したことは忘れられない思い出である。台風を懸念して、なるべく10月下旬まで日程を下げたにもかかわらずの台風直撃。それでも会場には関東・関西から70名ほどの会員の方々が宮崎を訪れてくれた。今回の大会の会場参加が「70名ほど」と聞いたので、よくあの悪条件の中でも通常並の人数が集まったものとあらためて思う。いや、「対面」+「オンライン」という形式は学生の講義同様に「オンライン選択」が増えるということであろうか?会場である立正大学品川キャンパス石橋湛山講堂の広く立派な容量からすると、いささか寂しい感じを受けたのは僕だけであろうか。感染拡大のトンネルを抜け出そうとする今、「文学研究」に関わる研究学会組織の「基礎体力」が誠に心配になってくる。会場に行けば、リアルに多くの方々に声を掛けられる。オンラインではできない効果として大きいと実感するが、こうした上京・滞在の負担なく同等の内容を聞くことができる「オンライン」の有効性も会場から思い計りながらシンポジウムの時間が流れた。

この日のシンポジウムで何より勉強になったのは、田渕句美子氏の基調報告「和歌のアンソロジー 『男歌』『女歌』、そして歌仙絵の観点から」であった。詠歌主体(作中主体・詠作主体)の問題は、古典和歌から現代短歌までを通底する問題として考えねばなならいとかねてから思っていた。特に「『古今集』の『ことば』のジェンダーとそこからの逸脱」という指摘は、先行研究を引きながら前提として据えられた点は考えさせられた。「うたの私性」とは何か?「うた」は、作品化してひとり歩きをする。詠歌の場や素材そのものが、「舞台」のような装置として演出されることも少なくない。一見「個」が重んじられるように見える「現代短歌」においても、「役柄」とか「脚本」の設定がなされ「リアル」ではない演出された表現が為されていることを自覚すべきだろう。これは古典和歌においては尚のこと、「勅撰集入集歌人」や「作歌の場の公共性」などを十分に考えた上で読み解くべきと思う。特に「恋歌」の「私性」の問題については、自己の課題として探究を進めていきたいと貴重な契機をいただいたと思う。

オンラインは会場を一瞬にして去るが
気の知れた仲間たちとさらにシンポジウム内容を語る時間が必要だ
対面を選択した意義は閉会後にあるのだ。


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