無為自然体ー牧水の「水」にまなぶ
2022-08-18
作為ありありで肩肘張ったガチガチ「水」はどんな形にも変化しつつ剛強の力を持つ
蒸発しても再び空から降りくるー地球の根源としての「水」
若山牧水についてあらためて第一歌集『海の聲』から考えているが、やはり「牧水(本名:繁)」の意味は大きい。「牧=マキ(母の名)」は自分の生命が生まれ出づる存在、そして「水=(故郷生家の前を流れる)坪谷川」は、海に流れ行きやがて蒸発して雲となり雨となって大地を潤す生命の根源である。牧水の「自然へのあくがれ」は、中国諸子百家の「老子」に通ずるものがあると思うようになって来た。「無為自然」=「作為がなく、宇宙のあり方に従って自然のままであること」と云う老子の考えは、「知」や「欲」を働かせず「自然に生きる」ことをよしとするものである。明治18年から昭和3年までを生きた牧水は、近代化の波の中でむしろ「知」や「欲」にまみれた時代の到来に対して、まさに「無為自然」を短歌によって多くのメッセージを遺したとも言えるだろう。その表現のためには、何より自らが「自然体」でなくてはならない。「川」の流れは、優しくも怖ろしい。「水」のあり方を作為ではなく身体化して、言語表現としてゆく。それが牧水の短歌ではないかと、ふと思ったりする。
明治以降「近現代154年」、この国の人はむしろ「知と欲」ばかりで生きるようになった。教育では「知識」ばかりを詰め込み、活用の方法を悟ることなく序列化され、偏差値が高いことだけに貪欲になる。自ずと「水」のように柔らかく芯の強い存在とは真逆で、硬く揺さぶりに弱い存在となる。「知と欲」ばかりになると一面でしか物事を見られず、自身の殻の中に閉じ籠り「裸の王様」と化してしまう。このことは研究者である僕などには、甚だ自省をすべきことかもしれない。短歌を作っても「研究者の殻」がガチガチに作用し、「知と欲」まみれの表現を吐露ばかりしてはいないか?「先生」と呼ばれる人が注意しなければならないのは、「上から教え込めばわかる」という傲慢な姿勢ではないか。どんなに「上手く話した」と自惚れても、聞き手である学ぶ側のうちに「意味生成」が成されなければ「伝わった」「学びが成立した」とは言えない。短歌もまた同じ、メッセージ性があり読み手の個々の中に多様な「意味生成」が生じる短歌がよしとされるはずだ。いわば「水」のような「柔弱に見えて剛強」な矛盾を孕んだ葛藤ある表現こそが他者に届くということだろう。せせらぎの水、うみの水、あめの水、地下ふかく染み込んだ水、無為自然にして生命の根源としての力が欲しい。
硬直した身体にこそ痛みが出る
知識ばかりをネットで検索し「わかった」と思い込む怖さ
「水」のごとく素朴でやわらかくしなやかではりのある存在でありたい。
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