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とことん実践主義ー教員みずからがやるということ

2022-08-04
音読も文芸創作もはてまた演技まで
授業で導入する活動は教員がやってこそ
ゆえに理論に閉じず活動に開いた教員養成を

「読み聞かせ」という用語が、お仕着せがましく大嫌いである。ゼミ生が卒論で扱うたびに、「読み語り」という用語を使用したらどうか?と提案している。子どもたちに「聞かせる」という「受け身」な姿勢を取らせ、どこか「読む者」が上から構える姿勢を想像させる用語を改めたい。絵本そのものを含めて「読み語る」空間では対等な関係があり、絵本は素材として読み手は伝達者として聞き手は反応者としていずれも主体的でありたい。叶うならば、この三者が融和する空間へと導くのが「読み語り」の対話的な理想である。語り手は絵本世界そのものになり、聞き手をその世界へ誘う。こんな関係があらゆる〈国語教室〉で実現したら、より楽しい「国語教育」になるだろう。だがしかし現実の〈教室〉では、旧態依然な「読み聞かせ」の理念のままの授業が横行しがちである。特に「音読」や「文芸創作」においては、「児童生徒」には「やらせる」が自らは「やらない」という場合が多いのだ。その結果、「創作の指導ができない」などという声を多く聞くのだが、創作指導がしたいならまずは自らが「実践」することである。

中高教員を長くやって来た経験から学んだことは「とことん実践主義」、生徒と同じ目線で自らが「やる」ということである。「音読」も「朗読劇」もそして「創作」も、活動として授業に導入することは自らが経験するのが原則だ。この考えは「国語授業」のみに止まらない。部活動でソフトボール部の顧問をしていたが、守備練習の「ノック(守備練習に有効な打球をバットで打つ行為)」はもちろん打撃練習の「投手」も自らが買って出る。野球経験はあったものの、初任の頃は上手くできないことが多かった。「ノック」でフライが上手く上がるか、特に「キャッチャーフライ」は難易度が高く、練習後のグランドで一人で練習をくり返したこともある。また打撃投手で練習に有効なボール(打ち頃なストライク)を投げてやる技術は思った以上に難しい。中学校からの経験者の生徒に呆れられることもあったが、僕はめげずに練習ボールを投げ続けた。その結果、いつしか思ったところにソフトボール独特の投法で投げることができるようになっていた。また文化祭を盛り上げたいという実行委員長がクラスの生徒にいた時、要望に応えて校庭の野外ステージでサザンの曲を熱唱したこともある。あくまで生徒の目線で自らも実践する主義なのである。この考え方は今でも生きている。例えば、現在いついかなる際に小中高どの学校種でも「授業をしてください」と言われたら、いつでも買って出る自信がある。「とことん実践主義」僕の「一教員」としての人生を貫く信条である。

大学の授業こそ「探究的学び」を
様々に厳しい状況がある教育現場にどう応えるか?
自らが実作をしないで和歌短歌をどうして読めるのだろう。


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