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夏は終われど命は時間

2022-08-31
暑さも思い出となり
喩えようのないせつなさを伴い夏は終わりを告げている
かつて自分を失っていた頃、「波乗りジョニー」で目覚めたことも

今や小中学校は、8月25日ぐらいに新学期が始まる。既に本学学部の3年生は附属小中学校で実習が始まっており、僕が朝のウォーキングをすると横断歩道の安全見守りの方が黄色い旗を持って現場に向かう。空はやや高いように見え蝉の鳴き声は絶え、夜の叢には虫たちの合唱が始まった。真夏には影を潜めていた蟻などは活発になり、家の近くの電線では百舌が甲高い声で鳴いている。自然の微妙な変化を意識できるようになった宮崎生活では、東京在住の時よりも夏の終わりのせつなさが和らいだ気がする。それは喧騒の時間の中に独り取り残された孤独感が消えて、自然とともに生きられる安心感があるからだろうか。かつて「夏の終わり」が他のどの季節の終わりより、せつなくつらく感じていた時期があった。どこか「季節の流れ」のせいだと思い込んでいたが、それは自らの生き方に納得できない不全感があったようにも思う。「夏が終わっても何ら成果もなく秋を迎える」、日本文化的な視点ならば「悲しき秋」を迎え「斜陽」の時へ向かい始める。そんな時、桑田佳祐「波乗りジョニー」の曲を声が枯れるまで歌い、新たな自分に生まれ変わるべきだと「神に誓った」夏の終わりがあった。

それから20年、夏を無駄にしない生き方が次第にできるようになり、こうして宮崎の自然と親和性をもって夏の終わりが迎えられるようになった。手元の『ほぼ日手帳』を見ると、本日のページに次のようなことが記されている。「俺たちは絶対に、何をしても、1秒前には戻れない。どんどん時間は流れていって、やったことは取り戻せません。命は時間、時間の無駄遣いは命の無駄遣いです。」とある。今年の夏も相変わらず忙しさに追われ続けているが、お盆には東京の親友夫妻が宮崎を訪ねてくれ、新型コロナの不安も各自が身を護ることで払拭し楽しい時間を過ごすことができた。19歳の頃から親しくなった親友が宮崎を素晴らしいと訪ねてくれたことは、過去のあらゆる僕を乗り越えて現在が最上であることを肯定するかのようであった。こうして感染症や社会そのものに不安が多い中でこそ、「命は時間」を深く意識して生きたい。8月1カ月が見通せる手帳のページは、あまりにも予定が多い。むしろ夏の終わりの今こそ、ようやく自ら静かな思考ができる時期を迎えた。今や秋の空気も大好きな自分になった。

精一杯やった自分を讃えつつ
親友との時間に全力な自分も好き
「命は時間」今日もまた素敵な8月を見送ろう。



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オンライン脳ー教室の感受性・共感性と表情

2022-08-30
「オンライン脳」とか「スマホ脳」などの指摘
「感受性・共感性」を失うなどWeb上の孤独とリアル感の喪失
そういえば笑わなくなった表情なき教室の光景が気になることも

現首相が新型コロナに感染し、「オンライン」を通じて「執務再開」という報道があった。公開用のオンラインがあると同時に、閣僚らとも「オンライン」で会談をしたのだと云う。特に後者の内容は政府の機密情報が含まれるため、首相官邸に閣僚らも足を運び同じ建物の中での「オンライン」だったという記事も読んだ。今年度前期になって感染状況の如何に関わらず「対面」という方針となったが、ゼミをオンラインにすると構内から参加する学生もいて類似した環境を体験したこともある。この2年半、常に考えて来たのが「オンライン」と「対面」で何がどのように違い、どんな正負の影響があるかということだ。思えば3年目となるコロナ禍にして、現大学3年生は入学式も行えず直後の授業開始も1ヶ月遅れた、2年生・1年生となるにつれて「対面」の率も増えたのであるが、既に高校時代からオンラインを経験した世代となる。少なくとも「オンライン講義」であると、「教室」で講義前後に雑談するとか声かけすることができない。自ずと学生との距離が縮まらない印象が、僕の中にも渦巻いている。

冒頭に記した「オンライン脳」という指摘がある。端的にいえば「感受性・共感性の喪失」という症状が出るらしい。このコロナ禍で始まったことばかりではなく、以前からWeb上の「孤独」とか「全能感」の問題としても指摘されていたことの延長にある問題だろう。「同じ場所に居ない」ながら、音声や文字情報だけが大量に流れて来る。何を「感受」し何に「共感」すればよいか?オンライン講義で「ビデオ停止(自らの顔が映る画面をオフにして黒い画面に参加者名のみが表示される状態のこと)」で臨む場合に、「オンラインの向こう側」で学生たちはどんな表情をしているのだろう?自ずと講義をする僕らも、「感受・共感」している情報が得られず派生したことや雑談に及ぶことは避ける傾向にある。こうした講義の「受け方」に慣れてしまうと、一々反応をすることが億劫になるのだろう。今年度は「対面」で行っていても、「大教室」の講義などでは「反応の少なさ」を実感する。ましてやマスクで目しか見えないゆえに、表情が豊かであろうはずはない。「良い講義」を目指すには「感受性・共感性」に訴える点が不可欠だと、長年の教員経験から僕は知っている。「オンライン」の際も「学部ごとに反応の声を上げてもらう」などの工夫をしていたほどだ。中には受講者の一人が「ミュート(自らの声がオンライン上に流れないよう停止させること)」を忘れて、オンライン上に講義で扱った課題曲の歌声が流れたこともあった。当事者は「オンライン講義に迷惑をかけて」と課題で謝罪して来たが、実はこんな「共感性」が担当者としては嬉しかった。今後もあれこれ工夫を凝らし、「表情なき教室」に「感受性・共感性」を取り戻さなければならない。

マスクの仮面を被った無表情
ましてや「笑い声のなくなった教室」で
人間が人間たる最も大切な感性が失われようとしているのか。


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結果で黙らせる快感ーIchiroさんSeattleの誇り

2022-08-29
Seattle Mariners Hall of Fame
白髪が増えて貫禄のある表情からのスピーチ
感謝ありユーモアありそして哲学あり

「22年前にシアトルの一員になった。」英語で語られたイチローさんのゆったりで穏やかなスピーチをMLB映像(日本語字幕なし)のWeb配信で全て聴いた。そうかもう「22年前」、入団会見でユニフォームに袖を通した彼は、その場でサッと一回転してそれが似合うことをアピールしつつ喜びを表現した。今ではもう日本のメディアも触れなくなったことだが、当時は日本の多くの野球評論家が難癖をつけて「日本のような活躍は到底無理だ」と断言していたのを僕は今でも忘れない。今考えれば、当時の野球評論家の頭の中が「メジャーには勝てるわけがない」と抑圧されていたわけで、イチローさんの視野の先には世界レベルのアスリートがあったのだと思う。この日の日本語会見でイチローさんは、「結果で黙らせる快感を知った」と口にした。シアトルマリナーズの球団殿堂入りという栄誉にあたり、ボールパークで行われた式典での英語スピーチでは、地元シアトルのファンへの感謝・お世話になった人々への感謝をユーモア交えて語ったのとは、ややトーンが違う気もした。22年前に根拠もない予想で難癖をつけた日本球界へのリベンジ、彼の中にはそんな貫かれた人生哲学が垣間見えた。

ちょうど10年前になるだろうか、イチローさんが長年在籍したシアトルからニューヨークへ移籍した年。僕はその年のスプリングトレーニングで、アリゾナを訪れた。僕の人生で、イチローさん最接近の経験である。其処には地元シアトルのファンがたくさん来ており、ある老女姉妹が僕に気軽に声をかけて来た。「フェイク(偽もの)イチロー」と彼女らは51番のレプリカユニフォームに短髪でサングラスを掛けた僕を、「イチローのそっくりさん」と勘違いしたらしい。何と本人が駐車場から車で出てくる際に僕を前面に押し出し、「ここに君がいるぞ!」というような手合いのことを笑顔で訴えていた。まさにジョークを本気でぶつけるアメリカ人気質を体感し、楽しい気分になった。キャンプという意味では、2009年WBC日本代表キャンプは宮崎で行われた。その時には高校教員だった僕は年休を取得し初日から3日間、宮崎キャンプのネット裏に陣取った。練習でもファンを沸かせるイチローさんの姿勢、その年の大会決勝で勝負を決める中前打を打ったイチローさんへの第一歩が宮崎にあった。その4年後から、キャンプが行われた当該球場のすぐそばにこうして住んでいるなんて夢にも思わなかった。今も変わらず続いているのは、イチローさんへのこれ以上ない敬意であることを、この日のスピーチで確かめられた。

またシアトルにも行きたくなった!
そして来年はWBC日本代表宮崎キャンプが決まっている。
「結果で黙らせる」プロの誇りがこれだ!


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宮崎大学公開講座「牧水をよむ」第1章その4「牧水の青春」

2022-08-28
「真昼日のひかり青きに燃えさかる炎か哀しわが若さ燃ゆ」
「わが若き双のひとみは八百潮のみどり直吸ひ尚ほ飽かず燃ゆ」
「春哀し君に棄てられはるばると行かばや海のあなたの国へ」(牧水『海の聲』より)

宮崎大学公開講座「牧水をよむ」前期4回の最終回。牧水の第一歌集『海の聲』を4つのテーマに分け、あらためて読み直してきた。出版当時は引き受けた版元が雲隠れして、借金の末にやっと世に出した歌集。宣伝などもままならず、歌壇で評判になることもなかった。だが今にしてこの歌集を読み直すと、牧水の「名歌」といわれるものが多数含まれている。僕たちが「牧水」を考えるとき「旅・酒・恋」の3つは必須の題材だが、その要素が既に『海の聲』には多く見られる。しかもそれぞれのテーマが「海」「空」「日(陽)」など「自然」に寄せた詠み方をしている。冒頭に挙げた3首は今回の資料の「10首」に僕が選んだ歌であるが、まさに「牧水の青春」が素材にも使用語彙にも感じられる歌である。既に園田小枝子への激しい恋慕を燃やしつつ、自らの「かなしみ」に向き合うことで短歌表現を紡ぎ出している印象を受ける。「若さ燃ゆ」とはあらためていいものだと、読み手として自らの若い頃に思いを馳せることのできる歌たちだ。

講座の冒頭には、先週開催された「牧水短歌甲子園」について審査委員長の伊藤先生からいくつかの歌の紹介があった。「モータル」「リリカル」といった語を駆使しながら、現代の若者らしい世界観が表現された歌へ着目されたのはこの大会の新しい風。どこか「読み」の中に「謎」を残すような、明らかにわかりやすい歌との違いに「若さ」が見えるということだろうか。また「戦争」に対して等身大の高校生がどう向き合うか、というテーマの歌の紹介も受講者ともども多様な世代の者として共感できるものがあった。短歌甲子園の歌への批評は、牧水もその「かなしみ」を「自分の外側に独立したものとしてあった」という若き牧水への伊藤先生の見方に連なる。「波」が立ちやすく「霧」の中に置かれたような、若き日の哀しみと苦悩。「安らに君が胸に死(は)てむ日」という下句の歌などには、牧水がその恋に命懸けであったことが知られる。恋に限らず牧水には「対象を好きになる力が高かった」という見解が、伊藤先生から述べられた。恋人も旅も酒も母も家族も、みんな徹底して好きだった。家で酒を飲んでも家族らは決して嫌な思いをしなかった、むしろ子どもらにも愛されたという牧水。現代のクレームや批判が多い世の中で、あらためて「好きになる力」を僕たちは牧水から学びたい。

第一歌集『海の聲』をよむ4回が完結
10月からは第2歌集『独り歌へる』第3歌集『別離』をよむ4回シリーズ
まだまだ牧水の再発見はこれからだ。


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オンラインはコロナのためならず

2022-08-27
地方在住研究者の学会参加
夏季休暇中のゼミ生との対話
帰省した人も参加できる学生短歌会 等々・・・

「オンライン」「リモート」などという遠隔Web通信を表現する語彙が一般化したのは、明らかに新型コロナ感染拡大のお陰である。人と人との接触を避けて、Web通信で仕事や授業を行うことができる。たぶんそれまでもSkypeなどを始めとして、オンライン会議や対話に使用する場合もあった。だが「対面」でできるものは「対面」でと、オンラインが主流になるなど考えられていなかった。特に「大学講義」に関しては、「原則対面」の殻を破ることに頑なだった面もある。だがなぜか?感染拡大を受けて大学では特に”zoom”がオンラインの代名詞になった。(絆創膏を「バンドエイド」と呼ぶ次元程度)だが「オンライン」はそれ以前からなかった訳ではないことも、今まさに確認しておきたい。僕自身も2017・18年頃より「地域連携推進科目」において、9コマの「e-ラーニング」コンテンツを作成しており、今まで毎年のように稼働させている。6コマは「対面講義」というハイブリッド方式であるが、この経験は「オンライン講義」になっても全く困らなかった要因でもあった。

研究学会もだいぶ「対面再開」の動きがあるものの、未だ感染状況に左右されている。多くで「ハイブリッド」か「ハイフレックス」の方式を採用し、同時双方向によるオンライン視聴とか一定期間は動画配信が為される学会も少なくない。地方在住の僕などには出張費や移動労力の軽減になり、誠にありがたい方式である。同様に学会委員会などもオンライン開催が多くなり、これまた様々な面での負担軽減になっている。またこのような夏季休暇中にゼミ生が相談があるなどという場合、帰省先などからでもオンラインは誠にありがたい。メールのみのやり取りでは伝えられない趣旨を、画面越しに話すことで伝えることができる。昭和の感覚からすると自宅にドラえもんの「どこでも画面」(作品では「どこでもドア」だが)があるようなもので、僕らが子どもの頃に描いていた未来像を手にしているとも言える。もちろん短歌の歌会などの活動はオンラインと実に相性がよく、うちの学生短歌会はもちろん結社歌会などでも「オンライン」が行われている。しかし、皮肉なものでこのような「未来」を「コロナ禍」がなければ活用できていなかったと思うと、日本社会の意識の低さが情けなくも感じる。大学教学システムなどは、「原則対面」になった今も有効に活用して講義を行っている。「オンラインはコロナのためならず」、あらためて「元に戻る」という言い方に違和感を覚える要因だと確認しておきたい。

「捺印」も廃止で「電子決済」へ
お金のやり取りは「接触感染」が心配だからではなく「電子決済」が便利
その一方でWeb社会がもたらす偏りがあることなども僕らは注意深く対応せねばなるまい。


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仕事の優先順位とゴール時間設定

2022-08-26
作業には優先順位をつける
また目標到達時間を設定する
効率よく時間を使うために

食事の際におかずやご飯をどの順番で食べるか?健康を考えるならば、血糖値の急激な上昇を抑えるために野菜からというのもかなり知られるようになった。コース料理の設定順番は、必然性があるということである。だが通常の食事で複数のおかずがある時、好きなものから食べるか?好きなものは後か?という行動習慣に関する議論もある。例えば、比較的好きでないものを先に「片付け」てしまおうとするあまり、そのおかずを「大好物」なのだと他者に勘違いされる場合がある。真の「大好物」はまさに「とっておき」の言葉があるように、最後に楽しみを残すという方も多いであろう。このような行動の優先順位が積み重なると、思わぬ影響が出てくることがある。これもよく議論になることだが、「あと24時間で地球が滅亡するとしたら、何が食べたいか?」という手合いのものだ。この理屈からすると、「とっておき」にしておくと「食べる機会を逸する」可能性があるということにもなる。人生そのものを見据えた時に、その優先順位も大切である。

講義がないこの時期は特にそうだが個人の裁量で仕事ができる際に、優先順位とか達成ゴール時間を決めておくことは有効である。1日の脳のコンデションとの対応も重要で、午前中に適した仕事と午後でも可能な仕事の区分けも大切にしている。大学教員の実務仕事が増量しているとされる昨今、研究時間の確保においても大変に重要な考え方であろう。冴えた午前中の脳をいかに活かすか?は大きな課題である。その午前中の前の準備体操になっているのが、小欄の執筆でもある。なるべく時間内にほぼ決まった分量だけ、このように文章を書き連ねる。この後の出勤までの時間に、コアトレ・ストレッチ・ウォーキングを必ずこなす。出勤時までにほぼ5000歩ぐらいの活動量になる。この積み重ねは、やがて大きな違いになって表面化するように思っている。「時間を大切に」と漠然と言うものだが、「優先順位とゴール」を大切にしながらの継続こそが力になる。洗顔・歯磨き・食事などもそうだ、疎かにしないことで10年後の自分は変わってくる。さあ!今日も時間を丁寧に使うことで自分を大切にしよう。

只今、起床して1時間
白湯を少しずつ身体に流し込みながら
時間の使い方で免疫力や人生そのものも大きく変えることができるだろう。


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立ち止まり深呼吸を

2022-08-25
走るのをやめられない
焦らず立ち止まり深呼吸をしてみよう
ガチガチの身体では先に進まない

もうそろそろ小中学校は、夏休みを終える。学校図書館司書教諭講習に参加していた方々が、折に触れて「始まる」ということを口にしていた。片やお盆前まで採点・評価に追われ、今もなお確認が続く大学業務は一向に「夏休み」になったという感覚が個人的にまったくしていない。お盆休みは親友が宮崎を訪ねてくれたので、もちろん「夏休み」として徹した感はある。だがその後1日をおいて4日間連続(土日を挟むが)、朝から夕刻まで講習があった今年の日程のせいでもある。世間一般の人からすると「夏休みが長くていいですね」とよく言われるのだが、これは中高教員をしていた頃からそうだ。中には皮肉たっぷりに給油に行くたびにそう言うガソリンスタンドの店主がいて、その都度に「部活はある。講習はある。」と言い返していた記憶はある。確かに昭和の時代は、「夏休み」を丸々を旅行している「先生」などもいない訳ではなかった。新学期の9月の授業はほとんどが「旅行の土産話」という同僚がいることを生徒から聞かされたこともある。それも隔世の感があり、今や小中高大とどの学校種でも「夏休み」に余裕さえない過酷な労働条件になっているのが現状である。それを今も、世間は知らない。

先週来、身体がややガチガチでほぐすことを大事にしている。先ほども小欄を書こうとPCに向かうとやや朦朧としてしまい、スマートウォッチが察知したのか1分間の深呼吸をしたらよいと提案された。考えることも様々あって、特に短歌に向き合う脳の部分が疲弊している感覚がある。それでも宮崎大学短歌会の歌会の題詠に向けて歌をまさに「ひねり出し」、歌会で得票をもらい学生に批評されることで「息継ぎ」ができたような感覚にもなる。ストレッチなどをしていても、思わず「呼吸」を忘れている時がある。身体が柔らかく反応するには、「呼吸」が不可欠である。寝る前に「深い呼吸」をするだけで、安眠度が違うと聞いたこともある。今月はあまりにも走り続け過ぎたとも思う。今こそあらゆる面で「深呼吸」が必要な時なのだろう。身体が柔軟さを失えば、必ず痛みが出る。「痛み」というのは「痛む箇所」に原因はないと東京で懇意にしていたスポーツトレーナーから聞いたことがある。既に猛暑を超えて、空気は秋になり始めた。立ち止まり深呼吸をして、心身をほぐす時間が必要かもしれない。

新鮮な空気を身体に取り込むこと
「せねばならない」と思い過ぎないこと
立ち止まるのを恐れずに時にゆっくり歩いてみる。


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テーマ詠「肉」ー宮崎大学短歌会8月例会ー歌会三昧

2022-08-24
「夏こそ肉」されど「生死」や「身体性」に関する歌が
そしてまた学校図書館司書教諭講習ではテーマ詠「本」「図書館」「先生」
丸一日が歌会三昧

夏季休暇中だがオンラインによる宮大短歌会定例歌会(前期は火曜日)を開催。出詠8首、参加者6名、テーマ詠「肉」という内容だった。素材として「大食らい」「焼肉店」「桜肉」「屠畜」「牛肉」「肉焼く」「肉じゃが」「肉焼く煙」などであった。県が畜産業が盛んで農学部も看板である大学だからであろうか、「食肉」「屠畜」「生死」への思いに寄せた歌も一つの特徴であったか。「ヒト」として「肉」を食べるとはどういうことか?「生命をいただきます」とよく言うようにあらためて動物としての存在について考えてしまう。その「食肉」を「大食らい」するとか、「喉に詰まる」とか、食べる過程にも焦点はあった。さらには「焼肉店」の光景、料理としての「肉じゃが」、我々の「生きる」を支えているタンパク源としての「肉」について深く考えさせられた。韻律や読みやすさの指摘もあり、【 】の使用など表記の問題の指摘もあった。

さて、この日は担当する学校図書館司書教諭講習最終日。やはり「短歌県の学校図書館司書」ということを意識し、短歌創作と歌会の体験とした。テーマ詠「本」「図書館」「先生」で午前中のうちに参加者全員28首の歌が集まり、午後は投票した歌を批評していく歌会を実施。一首の歌が作者も思わなかった解釈も出てくるという多様性の面白さを味わってもらった。「君」は恋する相手なのか?それとも教えている児童・生徒なのか?「先生」という存在は、「恋するごとく教え子に向き合う」存在であることも炙り出される機会であった。こうした講習機会によく指摘してきたのが、「児童・生徒に創作をさせるが教師自らはせずに指導の仕方がわからない」という自己矛盾について。あらためて「教える」ということは「まなぶ」ことなのだと確認される。少なくともこの日に短歌創作と歌会を体験した「先生」たちは、その面白さを学校図書館で展開する可能性を持つ。新しい時代に学習者が選べる個別最適化の学び、短歌ほど最強な学びの方法を僕は他に知らない。

4日間朝9:00〜16:20まで1日4コマ
担当として苦しい面もあるが受講者の充実感ある笑顔に助けられる。
また夏季休暇中も歌を詠み歌会を実施する宮崎大学短歌会会員の情熱へも拍手。


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生きた図書館つながる図書館ー図書空間から創発空間へ

2022-08-23
附属図書館の学習支援
館内案内を一巡りして
「この空間で何を創発しますか?」

学校図書館司書教諭講習第3日目。「図書空間から創発空間へ」と題し、この日は会場となっている本学附属図書館の空間をどう活かすか?をテーマに進めた。小中高の図書室もそうだが、「教室」ではない特別な空間である。ある意味で「教室」は制約があり強制的なことを「やらされる」場であるとすれば、図書館(図書室)はその強制なき解放された自らが興味に向かう場であろう。小学校の時の記憶では図書室の開架書棚の片隅を「自分専用のスペース」と定めて、そのあたりに配架されている書籍をお気に入りにしていたことがある。たぶん当時の僕は、自分の興味だけで「選べる」ことに大きな喜びを覚えていたのだろう。「個別最適化」が標榜される現在の教育で、「図書室で自ら選ぶ」という行為はより重要度を増したといえる。さらにいえば単なる「図書空間」ではなく、多様な資料と人が繋がり新たな秩序を生み出す「創発空間」を目指すべきである。本学附属図書館をこのような趣旨で改修してきたことも具体的に紹介する機会ともなった。

午後は例によって活動と発表。「あなたならこの図書館で何を企画するか?」を様々に発案してもらった。(1)「相談窓口」として、小中高の「探究」課題との交流的なやり取りをする。(2)宮崎の「虫」などをテーマに「地域交流民泊ツアー」を企画し、県内地域の交流を図る基盤になる。(3)小学生の「遠足」の場として、施設のみならず大学生らをバディとして短歌作りをする。(4)マタニティヨガなどから始め「ライフステージごとの学び」を備える空間にする。(5)国際連携などの部門を活用し「異文化交流」の言語活動を学べる場とする。(6)大学附属図書館をベースに「オンライン博覧会」を開催する。など6つのユニークな発案が発表された。いずれも現実に実行したい内容であり、大学附属図書館に何が求められているかをこちらが学ぶ機会にもなった。「世界を始め地域から始めよう」という大学のスローガンは、こうして外部の人たちにも門戸を開く図書館でこそ具体的に叶えられるものと知ることができた。日々の講習には「イノベーション(新機軸・革新)」の要素を入れている。学校は本来は「保守的」な場であるが、現在のこの国が直面する閉塞感を打ち破るには「教育現場」の発想転換が必須であると確信する。

全国学力テストの結果から考えても
「学びに向かう力」こそが大切だろう
生き生き「創発」する空間をさらに多様に自由につなげてゆきたい。


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電報でも自己表現でもないー第12回牧水短歌甲子園準決・決勝

2022-08-22
準決勝第1試合:気仙沼高校×宮崎商業高校 
準決勝第2試合:筑波大学附属高校×宮崎西高校
決勝:気仙沼高校×宮崎西高校(優勝:宮崎西高校)

「半年分の短歌の勉強ができた」審査委員長・伊藤一彦先生の言葉が実感として響いた。高校生が生身で短歌へ向き合う言葉、審査員が「歌人」として繊細に批評する言葉、さらにこの場から巣立った卒業生たちの逞しい未来ある言葉、これらが共鳴し合い誠に豊かな時間が牧水の故郷・日向市に巻き起こった。夕方のMRT宮崎放送のニュースには、僕自身も観戦し拍手している姿が映し出された。ここでは決勝後の「講評」の時間に審査委員の方々から語られた内容を覚書としておきたい。フィールドアナウンサーを務めた卒業生らから、「多様性の歌や短歌の型に嵌らない歌」が見られたという指摘があり、「新しい詩」が現れ始めた大会であることが示された。審査員の俵万智さんも各対戦の講評の随所で、自らを「型抜きおばさん」と称し同様の指摘をされていた。笹公人さんは俵さんを「も警察」と呼び、「歌の中にある『も』を取り締まり、動詞は3個まで」という指摘がYouTubeで浸透し、今大会で指摘されることが少なくなったと3年ぶりの変化を語った。

審査委員長の伊藤一彦先生からは、ウクライナ侵攻の歌もあったが意外にもコロナ禍の歌は少なく高校生の中で「日常化」したのではとの指摘もあった。また「歌は体験でも事実でもない」とフィクションの大切さを説き、「本当の気持ちを伝えるための嘘」という助言が印象に残った。さらに大口玲子さんからは、「詩歌は自己表現ではない」という谷川俊太郎さんの言葉を引用し、「世界を見つめその複雑さを表現するものが短歌」とし、「短歌を作り続けることで人生が変わる」との指摘があった。各対戦の講評の随所でも特に「戦争」を素材にした歌のあり方などに対して「映像などで間接的に知った光景」を描くことの、何とも言葉にならない不条理感への批評があった。実感のあるものが「短歌」だと特に近現代短歌は目指してきたが、Webなどによる情報過多な時代にあって、「実感」の質が揺らいでいるとでも言おうか?前述した「フィクション」への志向とどのように折り合いをつけて私たちは表現したらよいのか?短歌史における根本的な問いが発せられ、若い高校生の大会ゆえの未来志向な高度な議論が巻き起こったような印象だった。俵万智さんからの「短歌は論文でも電報でもない」という指摘、「三十一文字」という表現の宇宙についての核心的な議論を、牧水先生は天からどのように聞いていたのであろうか。

「LGBTQ+」への意識
文芸部ではない人たちの参加者の拡がり
「短歌県みやざき」の大変に豊かな2日間であった。


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