fc2ブログ

テーマ詠「花火」ー宮崎大学短歌会8月例会(その1)

2022-08-10
今年は3年ぶりに花火大会が開催となる中で
どんな花火をどのように詠むか
「儚さ」「散る」どこか人生の局面にもなぞらえて

大学は定期試験も終了し、事実上の夏季休暇期間となった。学生はいささかの開放感の中にあるのだろうが、レポートや答案を抱えている身としてはお盆までのこの期間が勝負。正直なところレポートを読む脳と短歌を詠む脳の切り替えが、大変に難しい季節でもある。含みを持たさずに客観的・論理的に書かれた文章のことばと、短歌に表現された言葉は大きな違いがある。などと考えつつ、出詠10首・参加7名にてオンラインにて歌会を開催した。授業期間が終わると附属図書館が17時閉館となることや、未だ県内の感染状況も厳しいことからのオンラインの選択だ。休暇期間としては実家に帰るという学生もいるので、オンライン開催は妥当なところ。開催方法が多様化したことは会の運営としても実施しやすい。さて今回のテーマ詠は「花火」、宮崎市内でも先週末には3年ぶりの「花火大会」が開催され、夏の風物誌として復活しつつある。打ち上げ式のものから手持ちの「線香花火」まで、若者が「火遊び」をどう捉えるか?興味深い歌会となる。

「しだれ柳」「家のあいま」「下駄の音」「家呑み」「初デート」「花火のあと」「線香花火」「ドーン」「蚯蚓腫れ」「着火」などを素材とした歌が並ぶ。「儚さ」に「恋」の体験が重ねられていたり、余韻や自己の花火見物の意識など多岐にわたった。「火を操る」のが動物と人間の多きな相違点だとよく言われるが、その際たる平和活用が「花火」ということになろうか。広く歌を読めば、人生の処し方や美しいものへの向き合い方についてを考えさせられる。自らの歌を含めて、詠草の歌たちは至って平和である。きっと僕らが「花火」に興じているのは「平和」であることを「忘れた」時間ということにもなるだろう。77年目の8月9日にして、僕らはあらためて長崎に祈りを捧げる日でもある。今回の詠草とは直接に関係はないが、日本三大花火大会で知られる「新潟県長岡まつり」の花火は、1945年8月1日の「長岡空襲」の惨禍を忘れずに平和を祈るためとして映画にもなった。(小欄2012年6月3日の記事に詳細あり)「花火に人生を詠む」その行為そのものが宮崎大学短歌会の平和への祈りなのだと思いつつ、オンライン歌会を終えた。

画家・山下清の言葉「世界中の爆弾が花火になればいい」
未来ある学生たちと夏の夜に短歌に向き合う
世界の至る所にある戦火への挑発を僕らはことばで冷静に語り続ける。


関連記事
tag :

就寝時間帯と起床後の1時間

2022-08-09
睡眠こそは疲労回復と明日への希望
よりよい目覚めのために何を飲もうか?
脳を休め脳内を整理してくれる時間として・・・

小欄を書き始めた動機として、朝起きた時に脳内にあることを書き留めておくという点がある。確か脳科学者の茂木健一郎氏が、「人間は睡眠中に記憶が整理され、必要と判断されたものが朝に残っている」というような趣旨のことを述べた記事を読んだからだ。毎朝、原則として起床した直後から小欄を書くことが習慣となっている。「寝起き」という意味では、あまり「雑念」もなく「虚無」な状態で書き連ねられるのではないか、と考えてブログタイトルも空海の言葉から名付けたわけである。さらにはその「虚無」の中から「実(生活)」に生きた内容に「帰る」ものがあることを理想と考えている。平安時代に唐の国に渡った空海は、驚くほどの短期間で密教の教義を修得し日本へと持ち帰った。何事も「集中」した時間の連続が、大きな成果にもなる。目覚めた脳を起こし、脳の作業台の上を整理する。その作用を伴いながら、「昨日を生きた証」として書き記す。さらには「書きたいこと」を短時間で文章化する、仕事上のトレーニングにもなっているのだ。

先週末からのオンライン研究学会に参加していささか疲れたので、一昨日の夜は9時過ぎには寝床に入り、10時には寝るようにした。これも睡眠の身体性を述べた記事に影響されているのだが、「10時から2時の時間帯」こそが「成長ホルモン」が分泌されるゴールデンタイムだと云う。疲労の回復も明日への活力も、この時間帯に寝ていることが理想のようだ。日常的には11時にはと定めているが、ついつい0時近くなってしまう場合もある。遅くなればなるほど、次の日の目覚めや仕事中の眠気に影響しているのは間違いない。ところが昨日の朝は、実に爽快な目覚めであった。やはり就寝時間帯と睡眠時間「7時間」はヒトに必要な眠りなのだろう。さらには、こうして執筆する際の「起きて1時間」の身体も大切だと云う。一般論として「目覚めのモーニングコーヒー」が有効なようだが、こちらの刺激も1時間ぐらい経過したのちに飲むのが得策らしい。よって今朝は「白湯(さゆ)」を少しずつ飲み胃腸に負担がないよう、また急な刺激物が届かないように配慮してみた。身体も脳もが起き出そうとするこの時間帯、細胞の一つひとつに水分が届けと願いながらである。

そしていまデスクの前の窓から注ぐ朝陽を浴びる
ここに書いたことを大切に生活を築きたい自分がいる
何より睡眠によって自分を大切に休めたいという思いも大切なのだろう。


関連記事
tag :

まなびをえらぶー個別最適化へ向けた「国語」の学び

2022-08-08
自ら問いを立て問いを吟味し解決への方法をえらび取る
押し付けられるのではなく個々が最適な方法で学んでいくために
「課題を形成する」分科会で学んだこと

日本国語教育学会全国大会(オンライン)2日目、午前中は「校種別分科会3・小学校「課題を形成する」の指定討論者兼司会を担当した。延べにして40名ほどの方々が、参集いただいたであろうか。2名の小学校教員の先生方が、自らの現場での授業実践に基づいた提案をいただいた。いずれも「文学学習材」により学習者自ら「問い」を立て、さらに問いを吟味して解決方法そのものを模索して展開される授業であった。令和型の教育として「個別最適化」が唱えられているが、「知識・技能」を活かすために「思考力・判断力・表現力」を働かせることで、「学びに向かう力」を求める方向性であることは昨日の小欄にも記した。「教師」はあくまで支援者、「学習材」と対等な関係でそれぞれが主体的に「学習者」と関わることになる。「学習者」は「いまここ」で学んでいることの「意味付け」に、自らが気づくことが必要だ。旧態依然の授業観をお持ちの向きは、果たしてそれで「学び」になるのか?と疑われるかもしれない。だが、この国の社会の「横並び」「社会的意識の低さ」を考えてもらえばすぐにわかる。いかに押し付けられた上からの「授業」を「学び」だと勘違いして来た歴史が厳然とあることを。

「学習者」を信じること、まずは「指導者」が心がける根本的な姿勢である。それは口で言うほど単純なことでもなく、「放蕩的」に学習者を身勝手に解き放つことでもない。「指導者」は「学習者」と「学習材」のそれぞれの「主体的な存在」に向き合い、自らも主体的になり「学習を繊細に支援する」という精密な協働性の円環の中に置かれることになる。「学習者」が「劇をすれば(物語の)登場人物の気持ちがよりわかる」という方法を採用したとすれば、「どんな劇をどのようにするのか」に対して適切な助言が求められる。そんな発想が「学習者」から発案される背景には、「登場人物に聞いてみよう」という「他人事」では済まされない、「学習者」自らが「物語世界に入り込む」という仕掛けが必要になる。「子どもたち」が「遊びの方法」を自ら発案し楽しむように、「学習方法」を自らが見つけていくという発明・開発の発想を育てていくことになるのだ。提案者の先生の向き合う学習者も、まさに多様である。それゆえに「指導者の支援調整」も自ずと求められて来る。夏の甲子園大会も開幕したが、開会式をはじめとして「高校生が自ら作る」ことで開催されつつある。監督談話の「選手がよくやってくれました」という意味は、決して「監督のため」という誤解ではなく、「選手が(主体的に考え行動し試合に向き合ったゆえの)よくやってくれました」と解することに偽りのない環境であることを信じたい。

「指導者」が学びを深めるために全国大会の場に向き合う
僕たち教員養成に向き合う者も「主体的」に実践から学ぶ姿勢が必要だ
活発な質疑応答により司会者として助けられまさに「発見」のある対話が醸成できた。


関連記事
tag :

自律的契機ー好き・楽しむ・浸るから始まる国語

2022-08-07
「知識・技能」
「思考力・判断力・表現力」
「学びに向かう力・人間性」ここを出発点として

日本国語教育学会主催「国語教育全国大会(オンライン)」が、2日間の日程で始まった。僕自身が宮崎県理事を務めるこの学会では、昨年(2021年)6月に「西日本集会宮崎大会(オンライン)」を主催し「短歌県みやざきの授業実践」という特集テーマにて実施した。「短歌学習材」に焦点化された内容は予想以上に好評で、シンポジウムには俵万智さんにもパネリストに加わっていただいた。今回は2日目の校種別分科会小学校の部において「指定討論者兼司会者」に指名いただき、「課題を形成する」というテーマの分科会を担当することにもなっている。初日のこの日は、「基調授業」が筑波大附属小学校の先生から提案された。「問い日記をつくろう」という単元名で、学習者自らが「物語」の問いを作り確かめ改めていくことが主眼とされていた。中でも注目したのは、学習者が「考える方法を自ら選ぶ」という方法を採用していたこと。これまでは指導者が「4人一組」などと決めた方法で話し合わせていた実践例が多かった。そうではなく、「一人」「ペア」「四人」「自由(途中で入れ替わる)」など主体的な活動をすることに新機軸が見られた。その後の授業協議では、「教室内を区切る」とか「教室から出ていく」という空間を超える「自律」の可能性を語る意見も出され、学びの(主体的)自由度を上げ個別最適を選ぶことが肝要なのが確かめられた。

その後、学会会長である桑原隆先生により「展望」が語られた。前述した授業の方法が理論的に提唱されるような内容で、考え方を明確に整理することができた。冒頭に掲げたのは学習指導要領に示されている「何ができるようになるか(資質・能力)」の三つの柱である。これを「総合的にバランスよく育む」ということを目指して「教育課程全体や各教科の学び」が構成されることになっている。だが、現場の「国語」授業などを見る限りどうしても「知識・技能」が最優先で、言語活動を通して「思考力・判断力・表現力」については意識しているという程なのが実情であるように思う。「バランスよく」とは言いながら、三番目の「学びに向かう力」が後付けのようになっている場合が多いということだ。桑原先生の「展望」では、この力こそが出発点となり「好き・楽しむ・浸る・成就感・上達したい」というような情動(情緒)的なことから自律的契機を大切にすべきだという方向性が示された。従前より僕自身も「音読・朗読」を中心として、「楽しい国語」を目指すべきと様々な機会に提唱してきたが、この提案により方針が適切であったことが確認されたようであった。さらに「elaborated code(精密コード)」による言語活動が大切であり、「異文化・異コード」と接触し変換する力により、自律的契機はさらに発動するということだ。例えば、「異言語間変換(外国語翻訳)」「異コード間変換(絵・写真・図)」などを始めとして、「同一言語間」では「ジャンル(韻文⇄散文)文体(物語⇄脚本)人称(一人称⇄二人称・三人称)」間の変換が有効な言語活動として自律の契機となるということ。これまで「創作活動」の大切さを提案し「短歌⇄物語・脚本」などの活動を大学講義でも取り込んで来た僕自身の実践の方向性を、明らかに「展望」として照らされたようだった。早稲田大学国語教育学会を通じても大変にお世話になっていた桑原先生、西日本集会開催や今回の司会者などで、少しでも先生への恩返しができるものとあらためて感謝の念を深く抱く機会であった。

「好き・楽しむ・浸る・成就感・上達したい」
「正解探し」や「やらされる」国語授業はもういい加減におさらば!
日本の学びに一番欠けている「意欲的」に火をつけて豊かな「国語」の学びを作りたい。


関連記事
tag :

どんな試験をやるべきなのだろう?

2022-08-06
約2年半の感染拡大で「レポート」ばかり
中高教員だった頃に課した試験も思い出しつつ
なぜ試験をやるのか?どんな試験をやるべきなのだろう?

僕が大学学部3年生の後期のこと、大学の授業料値上げに反対する学生自治会らしき組織が反対運動を起こし「試験」が実施できない事態となった。その際には全ての受講科目が「レポート」となり、大学から自宅にレポートと担当大学教員の自宅送り先一覧が送付された。大学という場を介せずとも担当教員へ単位取得の学力を証明するという方法として、大学側も手慣れている印象だった。学部の先輩らと話していると、「『・・・概論』はレポートでよかったね!」と言われたりした。当該科目は「試験」をすると、大量の単位不可が出ると有名であったらしい。確かにかなり頑張って担当教員宅へ郵送したレポートの評価は「良」であった。この経験からやはり「レポート」の方が単位取得という意味を考えると「安定株」ということになるのだろうか。この2年半ほどの感染拡大の状況下で、現在の僕の担当科目はWebシステム上への「レポート提出」にすることがほとんどだった。「手書きレポート→郵送」の時代からすると「個人情報」の問題も含めて隔世の感がある。今年度は「原則対面」が貫かれた前期、「定期試験」もコロナ以前のようにできるような感触があり、迷った挙句に「文学史」の担当科目は試験を実施した。教室で90分間を頑張って答案を書く学生らの姿を見ていて、やはり実施してよかったという感想を持った。

中高教員だった頃、同じ学年で「国語」を担当する教員が複数いた。「試験作成」も自ずと輪番となり「共通問題」を課すという慣習であった。転任したばかりで生徒の状況もわからない中、50分の試験時間を半分ぐらいで十分に書き終えて退屈そうにしている生徒が目立つのを監督をして目の当たりにした。試験問題の多くが単純な知識を問うもので、教科書準拠のワークブックの設問通りの問題も少なからず見られた。生徒らの学習姿勢として、ほとんど「国語は暗記科目」と思い込んでいる。その時、僕の「教師魂」に火がついた!果たして「このような試験でいいのだろうか?生徒は力を伸ばすのだろうか?」という強烈な問題意識に目覚めた。その後、僕と学年を一にする先生方からは、「採点者泣かせ」の問題を出題するようになった。まずはどんなに優秀な生徒でも「100点は取らせない」という戦いのような意識で作問した。自ずと記述設問が多くなり、試験中に問題文を多様に頭を働かせて再読しないと解けない問題である。正直、当初は生徒にも教員にも悪評であったが、次第にその学年の「国語成績」が実力テストなどで伸びてきていることに気づいた。「試験」に「試練」がなくてどうするのだろう?よく優秀なスポーツチームでは、「練習がキツくて試合は楽だ」という選手たちの感想があるものだ。こんなことを思い出しながら、大学の試験時間90分をフルに手書きの腕力を存分に使う学生たちに「実力」をつけるための「試験」を課し、あらためて満足した午後であった。

講義も含めて教員養成の「実力」がつく内容を
「試験を課す課される」という学生の経験としても
安易で採点がしやすい試験ほど学生を軽んじていると思うべきだろう。


関連記事
tag :

「・・・ない」という言い方を考える

2022-08-05
「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」(藤原定家)
「花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった」(吉川宏志)
残像とか微妙で繊細な心の動きとして「存在する」つまり「・・・ある」ということ

「肯定かー否定か」「プラスかーマイナスか」学生たちの記述などに頻出する考え方の枠組みである。高校までの小論文とかディベート、小学校以来の「意見表明の型(・・・について賛成〈反対〉です。なぜなら・・・)」として教え込まれるのか?毎年、1年生の記述した文章を読むとこの思考方法が大変に気になっている。はてまたTVのバラエティ番組で芸人が「○か✖️か」という札を上げる方式、「・・・・について賛成か反対か」を問う「劇場型選挙」の方略でもある。明確に「結論」を出すという意味でわかりやすく、提唱する側が毅然と決断力があるように見える方法だ。所謂「二項対立」という思考方法であり、比較対象を設定し基本的な立場を明らかにする方法として有効ではある。「子供/大人」「自然/人工」「集団/個人」など、やはり高校などで「評論文」を読む思考の枠組みとして教えられる方法でもある。入試における「選択式正解」を求める際には大変に有効であり、「受験国語」における「魔法の杖」のようなものとも言えるかもしれない。だが「対立項」は明らかな線引きで「対立」しているのだろうか?深く慎重に考えてみれば、「共通項」も多く「・・/・・」とスラッシュで明確に”区切らない”ことにこそ真実が見えてくるものだ。

冒頭に掲げた二首の短歌は、「・・・ない」という語法を使用した表現になっている。前者の定家の歌を「花(桜)も紅葉も否定するマイナスな表現」とするのが、前述した学生の記述によくあるパターンである。だがあまりにも著名な鎌倉時代のこの和歌には、既に多様な解釈が施されてきた蓄積がある。むしろ「なかりけり」ということによって、「(花も紅葉も)残像として顕然と読み手の心に映像として刻まれる」という解釈が穏当なところだろう。また二首目の吉川宏志さん(宮崎県出身歌人)の歌は、結句に「告げられなかった」と否定語が来ることから、学生の中には「(結論としてこの歌の主体は)愛を告げられなかった」と「否定」のみの意味で解する者がいることに驚かされる。いや、それほど入試用にしか通用しない「評論文読み」が定着している「成果」というべきだろうか。愛を告げると決めた主体が歩く「花水木の道」は、長過ぎず短か過ぎずちょうどよい時間を要する距離であったから「愛を告げられた」と読むのが一般的であろう。くり返すが、「(長過ぎたら)間延びして躊躇した」とか「(短か過ぎたら)話題を反れて言い出せない」とか、読み手の心には「告げられなかった」際の原因までもが残像として浮かぶのである。「文学の言葉」は少なくとも「額面通り」ではない。いや「額面通り」を敢えて意識させた後に、壊して反転することで「効果的」な表現となる。いまこれを「文学の」言葉と書いたが、実は「日常の言葉」でも、この破壊反転と対立項の共通点が読めてこそ「相手の真意がわかる」ということなのだろう。

政治家の言う「・・・はなかった」は「・・・はあった」ことを意識させる
二項のみの思考は「差別」そのもので「・・/・・」と壁を作り「一方を排除」するのである
ゆえに二項の思考を立てつつ壊し「文学」が読める「人の心がわかる」若者を育てたいものである。

関連記事
tag :

とことん実践主義ー教員みずからがやるということ

2022-08-04
音読も文芸創作もはてまた演技まで
授業で導入する活動は教員がやってこそ
ゆえに理論に閉じず活動に開いた教員養成を

「読み聞かせ」という用語が、お仕着せがましく大嫌いである。ゼミ生が卒論で扱うたびに、「読み語り」という用語を使用したらどうか?と提案している。子どもたちに「聞かせる」という「受け身」な姿勢を取らせ、どこか「読む者」が上から構える姿勢を想像させる用語を改めたい。絵本そのものを含めて「読み語る」空間では対等な関係があり、絵本は素材として読み手は伝達者として聞き手は反応者としていずれも主体的でありたい。叶うならば、この三者が融和する空間へと導くのが「読み語り」の対話的な理想である。語り手は絵本世界そのものになり、聞き手をその世界へ誘う。こんな関係があらゆる〈国語教室〉で実現したら、より楽しい「国語教育」になるだろう。だがしかし現実の〈教室〉では、旧態依然な「読み聞かせ」の理念のままの授業が横行しがちである。特に「音読」や「文芸創作」においては、「児童生徒」には「やらせる」が自らは「やらない」という場合が多いのだ。その結果、「創作の指導ができない」などという声を多く聞くのだが、創作指導がしたいならまずは自らが「実践」することである。

中高教員を長くやって来た経験から学んだことは「とことん実践主義」、生徒と同じ目線で自らが「やる」ということである。「音読」も「朗読劇」もそして「創作」も、活動として授業に導入することは自らが経験するのが原則だ。この考えは「国語授業」のみに止まらない。部活動でソフトボール部の顧問をしていたが、守備練習の「ノック(守備練習に有効な打球をバットで打つ行為)」はもちろん打撃練習の「投手」も自らが買って出る。野球経験はあったものの、初任の頃は上手くできないことが多かった。「ノック」でフライが上手く上がるか、特に「キャッチャーフライ」は難易度が高く、練習後のグランドで一人で練習をくり返したこともある。また打撃投手で練習に有効なボール(打ち頃なストライク)を投げてやる技術は思った以上に難しい。中学校からの経験者の生徒に呆れられることもあったが、僕はめげずに練習ボールを投げ続けた。その結果、いつしか思ったところにソフトボール独特の投法で投げることができるようになっていた。また文化祭を盛り上げたいという実行委員長がクラスの生徒にいた時、要望に応えて校庭の野外ステージでサザンの曲を熱唱したこともある。あくまで生徒の目線で自らも実践する主義なのである。この考え方は今でも生きている。例えば、現在いついかなる際に小中高どの学校種でも「授業をしてください」と言われたら、いつでも買って出る自信がある。「とことん実践主義」僕の「一教員」としての人生を貫く信条である。

大学の授業こそ「探究的学び」を
様々に厳しい状況がある教育現場にどう応えるか?
自らが実作をしないで和歌短歌をどうして読めるのだろう。


関連記事
tag :

健康長寿な現代の生活習慣として

2022-08-03
四十賀そして人生五十年といった昔
「健康長寿」をといわれる人生百年時代
与えられた命ゆえによき生活習慣をと思う

西行73歳・松尾芭蕉51歳・若山牧水43歳、中世鎌倉時代にしては西行は長寿、芭蕉は江戸時代の寿命統計は幅が広いらしくせいぜい寿命40歳なので長生きの部類、昭和3年43歳没の若山牧水は今にして「夭逝」と思えるが、劇的に寿命が延びたのは戦後であるらしい。周知のように酒好きであった牧水が、まさに「生活習慣」で身体を痛めたのは明らかである。しかし、この3者はいずれも旅の歌人(芭蕉は俳人)、自らの足で全国を歩き回り詩境を窮めて行った。西行は出家したことも相まっての「生活習慣」が、長寿の秘訣でもあるだろう。芭蕉や牧水は、むしろ過酷な旅を自らに強いたがために寿命を擦り減らした感も否めない。だが「歩く」という行為は、健康長寿には欠かせない条件とみて間違いないだろう。戦後は「国民皆保険」さらには「介護保険」などの世界でも類を見ない制度が、着実に日本の寿命を延ばして来た要因と見られている。とうとう「人生100年時代」とまで言われるようになった現代を、どう生き抜いたらよいのであろう。

個人的には30代後半ぐらいから、さらには40歳代になって健康への志向が高まった。「この10年間の生き方が、次の10年の生き方を決める」という意識が常にある。運動習慣・食事内容の精選・サプリメントなど、可能なところは意識して実行している。このように言うと、「ストイック(禁欲的)ですね」と言う方が多いのだが、自分ではそうは思っていない。好きな物を食べるし、酒も一定量は呑む。だが「運動」は、どうしても譲れない面がある。過去には「ジム通い」に執拗にこだわった時期もあったが、現在は生活の中に「運動」を取り込むようにした。「ジム」ならば週3回かせいぜい4回止まりだが、現在は「運動」をしない日がない。ジムの時からすると筋トレ量はかなり減退したが、それもまた現在の年代にして適切な量と方法ではないかと思っている。信憑性は確かめていないが、「過剰な運動」というのもむしろ逆作用で健康を害するという研究成果の記事をWebで読んだことがある。冒頭の芭蕉や牧水に学ぶならば、強行な旅は控えよということだろう。運動習慣があってこそ、「学生時代と変わらぬ体重」を維持していることは自負できることの一つである。

人間ドッグや諸々の検査の励行
いただいた命を自らが大事にするために
さあ!今日も生活の中の「運動」をはじめよう!


関連記事
tag :

医師への信頼は自ら作る

2022-08-02
掛り付け医の大切さ
自らコミュニケーションをとり忌憚なきやりとり
誰しもが怖い自らの身体のことだからこそ

所謂「第7波」の到来によって、医療現場の逼迫(ひっぱく)が深刻な問題となっているようだ。発熱外来はもとより、救急搬送先が見つからない状況は都市部で顕著で自宅療養の末に命に危険が生じるケースなどが報道されている。在宅訪問医療をしている医師たちも過酷な労働を強いられ、受診すべき人が適切に医療を受けられない状況が未だに多いのだろう。この2年半、常に「医療現場の整備」が「第○波」ごとに専門家から指摘されてきたが、未だに何ら政治的な策が講じられていないことに驚きを禁じ得ない。既にマスク着用義務さえも制約を受けない欧米の社会では、感染者数は多いものの先を行っている感が否めない。「失われた30年」ともいえる世界での経済的後退が現実として突きつけられるいま、感染症対策でも「後進」と言わざるを得ない状況が眼前に広がる。「国民皆保険」で誰もが安心できる国、「安全安心」というお題目ももう聞き飽きたが、我々は世界で取り残されそうな固着した国に生きている自覚を持つべきだろう。

新型コロナ感染拡大以降、「掛り付け医」の大切さがあらためて説かれている。手元の『デジタル大辞泉』を繰ると、「家庭医」と同義とありその項目に「地域住民の健康を支える医師」とある。さらに「補説」では、「欧米では家庭医と専門医が明確に分業されており、医学教育も初期段階から分かれている。」とあった。僕らの専門分野で考えても同様だが、「現場」に寄り添う「教育研究」を得意とする人と、専門を奥深く新規開発を得意とする人がいるのは確かだ。より実効的に「いま此処の学校の授業をより良くする」という意志を持ち得る「実務経験」ある研究者が教員養成学部でも求められるようにはなって来た。話は迂遠したが、僕自身も「眼科」と「歯科」については掛り付け医があり、またすぐに相談できる医師も身近にいらっしゃる。「眼科」は商売道具である目を、「歯科」は日常の食生活を支えてくれている。いずれも忌憚なく何でも質問できる、良好な関係であるのが良い。もとよりそれぞれの医師の人柄もあるのだが、まずは自らが謙虚に敬意をもって医師に接する態度が重要であろう。自分が「生きる」ことに直結した「医師」の存在は、何ものにも代え難く重要だ。担当する基礎教育科目には、毎年医学部1年の学生らが一定数は受講している。短歌の世界を知ってもらい、患者さんへの言葉とコミュニケーションを大切にする医師になって欲しいとささやかに願っている。

患者の「いま」に寄り添う意志の大切さ
そして何より患者としての謙虚な態度と
高齢化社会において何より大切なのは「家庭医」の存在なのではないか。


関連記事
tag :

流れる雲を追いかけた7月

2022-08-01
台風の余波かと思う風に雲は流れて
参議院議員選挙・牧水賞授賞式・学期末などが足早に
講義モードから研究モードに切り替えよう

いまこうして小欄を執筆しているPCの向こうに、南東から北西へと足早に流れていく雲たちが見える。台風5号が過ぎ去ったかと思えば、台風6号が九州の西の海上にある。きっとそれに向かった風の流れに乗ってのことだろう。二つの台風が過ぎ去って行ったが、今年は7月に豪雨による災害もなく気象の上では平穏であった。だが周知のように参議院議員選挙中の元首相銃撃事件は、社会に大きな衝撃を与えた。この事件で「パンドラの箱」が開いたように「政治と宗教」の問題が露呈し、さらなる政治不信の風が吹き出したようにも見える。元首相の死を悼みつつ、知らぬ間に隠されてしまう政治の闇が晴れて欲しいという思いが絶えない。これはやはり国民一人ひとりが意識を持って自らが汗水垂らして働いて納める血税の行方を、意識をもって監視すべきではないかと思う。政治に何となく目を背けてしまう、そんな社会・教育環境を個々の意識から変えていく必要があるだろう。

牧水賞授賞式が2月開催から延期となって、7月18日に開催されたことは既に小欄に書いた。佐佐木幸綱・高野公彦・栗木京子といった現在の短歌会の大御所の方々とお話できる機会、また受賞者の歌集を読み込み、受賞者の牧水観を知ることができる機会として貴重だ。今回は特に牧水第一歌集『海の聲』出版の日の開催、ということを僕が発見し伊藤一彦先生にお伝えしたことが、授賞式冒頭での話題となり、俵万智さんが宮日連載に大学名と名前入りでご紹介いただいたことは誠に光栄なことであった。学期末で諸事多忙な中であったが、こうした機会に恵まれるという宮崎に住むありがたさを十分に受け止めることができた。また忙しい学期末ながら嬉しさを覚えるのは、学生たちが講義で学びの達成感を味わっている姿だ。1・2年生の専門科目が多い中で、15回目最後の講義で、まとめを述べるスピーチをいくつかの講義で課している。その内容に4月にはなかった考え方が見えて、15回+学生の講義外学修の成果を聞くことができる。90分×15回で何を伝えることができたか?教員を目指す学生らにとって、自信と希望になる学び。僕自身が彼らにとっての好影響を与える「流れる雲」なのかもしれない。

暦は8月となった
研究モードにギアチェンジを
学会分科会の司会・親友の宮崎訪問・牧水短歌甲子園、今月もまた楽しみな日々だ。


関連記事
tag :
<< 前のページへ << topページへこのページの先頭へ >>