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やはりライブ感ー牧水短歌甲子園3年ぶりの会場開催

2022-08-21
第12回牧水短歌甲子園(宮崎県日向市で開催)
YouTube配信もあり
だがしかし発言に会場が呼応するライブ感がいい

この2年間、机上審査や審査員のオンライン座談会を組み合わせた方式で開催されてきた牧水短歌甲子園。今年は3年ぶりに、従来からのライブ形式での開催となった。ただし「YouTube配信」は残されており、どこからでも大会の様子を観ることはできる。 午前中は所用があったが、妻がスマホで大会の様子を受信しその様子が気になり出していた。他に用事のある場合、このように自宅でも大会の様子が知られるのはいい。今回の予選を通過した12チーム、北海道1・宮城1・東京1・山梨1・大阪1・福岡2・熊本1・宮崎4という県ごとの分布である。昨日の札幌の気温が26度と紹介もあり、宮崎県日向市とは10度もちがうと云う。遥か10度の気温差を超えて、実際に高校生が牧水の故郷である日向に来てくれている意味は大きい。

3年ぶりに会場で大会を観戦して思うのは、やはり観客との呼応である。高校生の実直な主張に頷く声とか、また審査員の笹公人さんのユニークな喩えに思わず笑い声が上がるとか、観客が短歌の表現に酔っているような雰囲気が微笑ましい。短歌を俎上に載せた対戦はオンラインでも可能であったが、壇上で「向き合って」意見を交わすという身体的なやり取りの大切さを看て取ることができた。審査員も壇上に御三方が並ぶことで、それぞれの批評の個性がより如実に現れる。リアルな声、呼応する声、我々はやはりオンラインでは受け取れないものを一堂に会することで再び取り戻すことができたような感覚となった。そしてあらためてこの大会は、審査員の3名のコメントが個性的かつ的確であることが確認できた。「一首に動詞は3つまで」俵万智さんがこの大会を通して助言してきたことだが、回を重ねるごとに高校生の作歌にそれが浸透していることも指摘された。まさに学び合いの場、高校生たちのこの上ない「豊かな言語生活」の舞台である。

本日は午前9時より13時まで準決勝・決勝
「若ければわれらは哀し泣きぬれてけふもうたふよ恋ひ恋ふる歌」
(牧水・大会パンフ表紙に掲載)


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本を持った手つなぎ鬼ー素材開発から発案する単元学習

2022-08-20
「素材にしたら学びが深まる本」
2分のブックトークの後、受講者間で「手つなぎ鬼」
つながった仲間と作る単元学習案

学校図書館司書教諭講習2日目。事前に「(学習)素材にしたら学びが深まる本」を選定し、持参いただくよう課題を出しておいた。最初に「単元学習」のあり方について確認、「言語生活(学びに向かう力・人間性等)」を起点に「言語活動(思考力・判断力・表現力)」を構成し、この「巻物」の円周に包まれるような核心に「言語(知識・技能)」があるという図式である。「言語」の定義は、「音声・文字・語彙・文法」の四要素。従来からこの要素が基本に据えられることから、その習得ばかりが「学習」だという勘違いが未だに横行している。例えば、高等学校「古典」学習では、「歴史的仮名遣い」とか「古文単語・文法」ばかりが学習機会に反復され、素材である文章を学習者が当事者意識を持って「意味生成」することはない。これは僕らの頃からの悪弊であるが、学部学生に聞くと今もこの勘違いした授業構成が行われてしまっているようだ。「教育は保守的なものだ」と学部時代に「教育学」の先生の弁を思い出すが、明らかな悪習であるにも関わらず、そこから容易に改革がままならない怖さを実感する。

「学校図書館司書教諭」がいかに校内で「学習指導」を多様にコーディネートできるか?そのような演習を行う意図もあり、受講者が持参した推薦本についての「ブックトーク」を1人2分。昼休みを挟み、午後の一番でそのトーク内容から受講者同士が「手つなぎ鬼」のようにつながっていく。前述した「単元構成」をもとに当事者意識を持った「言語生活」から発想し、教科を超えた多様な学びを発案していく演習活動に入り、最終時間でその発表という流れ。担当者が懸念することもなく、受講者は自ら「えらぶ」ことで8つのグループを構成した。どのような学びの機会でも「学習者がえらぶ」ことが、個別最適化の中で肝要である。発表においては「総合的な学習」と受け取れるものが多く、「平和」や「教室の住みやすさ」などを深く考え合う内容の単元構成が提起された。受講者が発案の対話をする際に学んだことだが、「特別支援」の視点を包摂することで学びは大きく柔軟に寛容性を増す。「教室はまちがうところだ」といった絵本は、明らかに「みんなちがって みんないい」を考えさせられる。「平和」は世界で作るとともに、「あなたのいるいまここ」で作り出すものなのだ。受講者への声かけとして、本当に学校でやりたくなる単元構成を発案してくださいと言った。何事も机上の空論を展開することが、学習を実効性のないものに貶めてきた。この日の豊かな「単元」の中から、実行できるものをオンラインなどを駆使して県内で実行してみたいと意欲が湧いた講習であった。

「教科書」とか「教室」を超えた単元学習
明日の宮崎を世界を考える学習構成
僕自身がまた現場の先生方とのつながりを強く持つ機会になっている。


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学校図書館司書とメディア創作型学習

2022-08-19
学校図書館司書講習の4日間が始まる
第1日目「第三世代型学習観とは」
「選べるメディア創作型学習」を目指す講義と演習

今年は、例年この時季に設定される「教員免許状更新講習」が廃止となって初めての夏。だが、数年に1度は担当が巡る「学校図書館司書講習」における「学習指導と学校図書館」4日間が始まった。時代とともに「学校図書館」の役割も変わりつつある。公共図書館が既にそうであるが、「資料を揃えて貸し出す」機能のみでは成り立たないと考えるべきだろう。同時に「新しい時代の学習観(小欄2022/08/08記事)」を踏まえた場として展開することが必要である。この「第三世代型」ともいえる学習観として、ここ数年で僕自身が研究学会に提案してきたのが「メディア創作型課題学習」である。「短歌・俳句・詩・小説・物語」などの文芸創作を目指しつつ、それらをラジオドラマやリーディング劇に仕立てて表現したり、CMやSNS表現に展開したりする方法である。文芸には「鑑賞・批評」がつきものだが、学習において「鑑賞文」などを求めると形式的で当事者意識のないものになりがちである。そこで「メディア表現」をすることで、原作の読みがさらに深まるという方法である。

この日は午前中に「第三世代型学習観」や「メディア創作型」の意義を講義した。午後はこちらが提示した短歌から「好きな歌を選び」、受講者各自が「好きな方法を選び(誰とどんなメディア創作を作るか)」、さらには「好きな場所を選ぶ」ことによる演習活動を展開した。90分間という限られた時間で、この講習内で出逢った仲間と何をどこまで作れるか?「教師」が注意しなければならないのは、「学習者にやらせ」はするが「自らはしない」ということだ。文芸創作などに対しては特にこの傾向が顕著である。その上で「創作の指導はどうしたらよいか?」などという質問を受けることが多い。旧態依然の指導観であると、「添削」をすることが「指導」だと思い込んでいる向きも多い。だが「添削」というのは、本当に学び手の力を伸ばすことにならない。創作対象に対して当事者として何が足りないか?何がよいか?に気づく対話としての機会を持つべきだろう。さてこの日の受講者のみなさんはいかなるメディア創作を編み出したか?寸劇あり歌物語あり、さらにはユニークなドラマやスマホで録音したラジオドラマまであった。発表会の光景を観るに、参加者が生き生きと相互の作品に向かい「探求と創造」を体験することができた。

スマホやICTの活用は「メディア創作型」と相性が良い
「学校図書館」が「楽しく好きな」場所となるために
新たな時代の新たな「学校図書館司書」を本県では生み出したい。


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無為自然体ー牧水の「水」にまなぶ

2022-08-18
作為ありありで肩肘張ったガチガチ
「水」はどんな形にも変化しつつ剛強の力を持つ
蒸発しても再び空から降りくるー地球の根源としての「水」

若山牧水についてあらためて第一歌集『海の聲』から考えているが、やはり「牧水(本名:繁)」の意味は大きい。「牧=マキ(母の名)」は自分の生命が生まれ出づる存在、そして「水=(故郷生家の前を流れる)坪谷川」は、海に流れ行きやがて蒸発して雲となり雨となって大地を潤す生命の根源である。牧水の「自然へのあくがれ」は、中国諸子百家の「老子」に通ずるものがあると思うようになって来た。「無為自然」=「作為がなく、宇宙のあり方に従って自然のままであること」と云う老子の考えは、「知」や「欲」を働かせず「自然に生きる」ことをよしとするものである。明治18年から昭和3年までを生きた牧水は、近代化の波の中でむしろ「知」や「欲」にまみれた時代の到来に対して、まさに「無為自然」を短歌によって多くのメッセージを遺したとも言えるだろう。その表現のためには、何より自らが「自然体」でなくてはならない。「川」の流れは、優しくも怖ろしい。「水」のあり方を作為ではなく身体化して、言語表現としてゆく。それが牧水の短歌ではないかと、ふと思ったりする。

明治以降「近現代154年」、この国の人はむしろ「知と欲」ばかりで生きるようになった。教育では「知識」ばかりを詰め込み、活用の方法を悟ることなく序列化され、偏差値が高いことだけに貪欲になる。自ずと「水」のように柔らかく芯の強い存在とは真逆で、硬く揺さぶりに弱い存在となる。「知と欲」ばかりになると一面でしか物事を見られず、自身の殻の中に閉じ籠り「裸の王様」と化してしまう。このことは研究者である僕などには、甚だ自省をすべきことかもしれない。短歌を作っても「研究者の殻」がガチガチに作用し、「知と欲」まみれの表現を吐露ばかりしてはいないか?「先生」と呼ばれる人が注意しなければならないのは、「上から教え込めばわかる」という傲慢な姿勢ではないか。どんなに「上手く話した」と自惚れても、聞き手である学ぶ側のうちに「意味生成」が成されなければ「伝わった」「学びが成立した」とは言えない。短歌もまた同じ、メッセージ性があり読み手の個々の中に多様な「意味生成」が生じる短歌がよしとされるはずだ。いわば「水」のような「柔弱に見えて剛強」な矛盾を孕んだ葛藤ある表現こそが他者に届くということだろう。せせらぎの水、うみの水、あめの水、地下ふかく染み込んだ水、無為自然にして生命の根源としての力が欲しい。

硬直した身体にこそ痛みが出る
知識ばかりをネットで検索し「わかった」と思い込む怖さ
「水」のごとく素朴でやわらかくしなやかではりのある存在でありたい。


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遥か40年間を俯瞰するための時間

2022-08-17
宮崎一高いレストランからの眺め
海岸線は青島方面へと連なりさらに南へ伸びる
この街で生きて10年目の夏に

人生には、「正解」などない。大学入試を通過したがために「正解主義」が身につき、講義する側の僕の「答え」を待っている姿勢の学生によく投げかける言葉である。どんな学校に行き、どんなことを身につけ、どんな恋愛をして、どんな仕事を持ち、どんな結婚をするか?仕事がどんな展開をして、仕事のあり様に変化が生じるか?この様な人生の流れは根本的に自らの「意志」に左右されるが、個別の分水嶺において「運命」に依存していることも少なくない。学生らはよく「最適解」などという語も「論理的」だとして利用するが、歩む先の人生はそれを判って進めるものでもない。むしろ「わからない」からこそ進むことができ、その場所で踠き苦闘してこそ「適している」状況に擦り合わせることができると言った方がよいのだろう。肝心なのは「苦しむ負荷」に、物怖じしないことである。「傷つくから恋愛に踏み込めない」という若者が多い様だが、人間は「傷ついて」こそ新たな地平が見えてくるものだ。ちょうど筋力をつけるには筋肉に負荷を掛けて筋断裂を起こすと、筋肉が修復を目指してより強くなるように脳も心も傷つく負荷が必要になる。よって何歳になっても「歩く」こと、「話す 聞く」こと、要は「人と交わる」ことこそが人間を人間として生きさせる、といってもよいだろう。

親友と過ごした日々も最終日、宮崎で一番高い建物の最上階に近いレストランでランチをして、しばしの惜別に導くことにした。遠く初日の暑い中で満喫した青島が見え、僕の住む地域や宮崎市内が一望できる。この宮崎に移住して10年目、あらためて親友婦人に「なぜ宮崎に来たのか?」とも問われたが、「公募採用」という偶然に依るものだと自らの答えを再確認する。この街がこれほど「好き」になるなんて、移住して生活するまではまったく判らなかった。「狙って」とか「どうしても」ではない自然な流れの中で、いつしか宮崎に赴任が決まっていたというのが正直なところである。この3日間、20歳頃に親友と出逢った頃の話題も絶えなかった。あの頃からお互いが歩んだ日々は、決して高層の建物から景色を見るようにはいかない。お互いに様々な紆余曲折があり、今もそれが進行中であることがわかる。肝心なのはどんなことがあっても、自分を信じて前を向いて生きることだ。そんな意味では、「どんなことがあっても前向きに親友でいてくれる」友が誠にありがたい。お互いに生きる世界は違う、ゆえに世間をも俯瞰できる。少なくとも心を寄せて僕の大好きな宮崎に来てくれる、という友情と呼んでも足りないぐらいのありがたき友の心を受け止めた。

新しい朝がやってくる
東の海上の日の出に感激したと云う
素晴らしい時間を胸にさらに前向きに歩み出そう!


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野生とは?馬が合うとは?ー40年の語らい

2022-08-16
親友夫妻と野生の岬馬に逢いに
40年間「馬が合う」とは?
ご夫婦相互の姿から学ぶこと多き時間

「馬が合う」という慣用句を『故事俗信ことわざ大辞典』で繰ると、「どことなく気性が合う。意気投合する。馬とその乗り手の呼吸が本能的にぴったり合う意からいうか。」とされている。江戸時代(1700年代初頭)浮世草子や浄瑠璃の用例が出ているので、当時からの物言いのようだ。『大辞典』のいうところの「どことなく」という点が誠に言い当てていて、理由を明確に述べろと言われても言い得るものではない。この度は出逢って40年になる親友と宮崎で楽しい時間を過ごしているが、その「馬が合う」を確信する時間となっている。例えば、食べ物への嗜好、スマホで写真を撮るタイミング、1日の行動計画など、あらゆることの好みが合致するのだ。若干20歳と19歳の時に偶然にも出逢い、ここまで長く付き合いができる友などと欲もなく、その都度その都度のくり返しを重ねるごとに感じていた感性が適切だったことがあらためて自覚される。「馬とその乗り手」という喩えは直接に適合できないかもしれないが、相互に「馬」か「乗り手」になっているような感覚がある。

「相互に」という意味では、夫婦のあり方もまた同じ。どちらか一方が「馬」であり続けることもなく、状況に応じて交代していく姿を親友夫妻の言動から学ぶことができる。この日にともに訪ねたのは「都井岬」、既に僕自身は何度も行っているが行く度に新たな発見がある。岬の先端にある灯台の上から、300度ほども拡がる海を感じる。「海好き」なのも親友との大きな接点で、「サザンファン」としてともに時代を生きてきた象徴としての「海」がある。その後は、岬馬が草を喰む草原に行き、春駒として生まれた16頭のうちの1頭に注目する。何も感じずにただ立って朦朧としているようなのが、動き出したかと思えば母馬の乳を吸いに行く。そんな動きに癒されながら、野生に生きるとは何かと考えさせられる。たくさん写真も撮影しいざ帰る際には、駐車場の入口を1頭の大きな馬が塞いだ。群れの当主であろうその雄馬は、雄たる象徴を目立たせながら周囲の雌馬にアピールするかのようだ。(どうやら種の保存上、ハーレムを形成している)この岬の草を喰むのみで、果たして野生馬の栄養は足りるのか?人間も原始には「野生」だった時代があったはずだ。だが遥かな「ホモ・サピエンス」の歴史の中で、あまりにも僕らは甘やかされて生きているようだ。などと考えつつ、僕らの昼食はせめて自然成分の出汁の利いた「宮崎うどん」を楽しんだ。

宮崎郷土料理と「あくがれ」で語り合う宵のうち
人生には色々なことがあるが語り合う友こそ宝だ
あの20歳頃から、僕らの感性は大きく変わりさらに大きく変わらないのだ。


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大切な時間を親しき人たちと

2022-08-15
盂蘭盆会の宵
語り合う親族の声
そしてまた親友の来訪へ

珍しく昨日は、小欄もお盆休みをいただいた。13日より妻の実家に赴き、昨年の初盆に続き義父の霊を迎える時を過ごした。義姉家族もともにして、様々な話題を語り合う時間は貴重である。何と決めていたわけではないが、こうした場で語り合うことはあらためて自分自身の存在を確かめることになる。とりわけ甥っ子を前に語った「20代をいかに生きたか」という記憶の反芻は、現在こうした仕事をして宮崎にいる自分の姿を客観的にみるためのものとなった。世代間というのは、こうした語り合いの中で次世代に引き継がれて行くのだろう。まさに天国にいる義父の思いやりある心遣い、「精霊会」「魂祭」ともいわれる意味を噛み締める。東京ではほとんど行わなくなっていた(我が家の場合、新暦7月に檀家の寺で供養)時間の過ごし方をさせてもらっている。家族とは自らの存在に感謝し、明日への希望を繋ぐための大切な語り合いをすべき人々である。

そのお盆にしか自営業を休めない親友が、初めて宮崎を訪れてくれた。感染拡大以前から「いつかは!と話していたのだが、今年は様々な偶然や幸運もあり実現した。もちろん感染も気になるところではあるので、早く空港に到着し自ら抗原とPCR検査を受けた。30分で結果の出る抗原は「陰性」、ある意味で検査を掻い潜らねばならない時代を憂える。宮崎そのものが10万人あたりの感染者数が沖縄に次いで全国2位、県からも「医療非常事態宣言」が出されている。僕たちは適切にこの感染症を理解し、適切な方法で貴重な時間を持つことを大切にすべきだろう。爽やかな海風に吹かれて、親友との語らいも弾む。親友とは20歳頃からの親しき付き合いであるが、それだけに昨晩にも語った、「自らの20歳代」への記憶がリアルに蘇る。僕が宮崎への縁を結んだ青島の地で、宮崎の親友の店にも立ち寄る。あらためて自分はこうした親友たちとの語り合い中で、「生かされてきた」のだと実感する。

大切にしたい家族と親友
「人はみなひとりでは生きてゆけないものだから」
今日もまた宮崎の東の海上に陽はまた昇る


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集中して小さく丁寧にー時間管理の方法

2022-08-13
回数指定なしの腕立て伏せ
1回ごとが荒くなって筋肉への効果は下がる
回数よりも質を高める小さな目標を丁寧に

夏の甲子園が開幕しているが、野球などは特に長く練習しないと上手くならないという考え方がある。いささかの理はあるが、あまり感心しない。初任校の野球部はせいぜい年末年始の2日ぐらいが休みで、363日は練習があるという状況だった。もちろん指導者も、休日は同様だった。単純に考えればプロより練習時間は多い、部員はほぼ野球漬けの3年間となる。その背景には、余計な遊びを覚えないこと、その上で不祥事などを起こさないこと、という管理の意味もあっただろう。僕はさして強いわけでもないソフトボール部の顧問だったので、休日の「1日練習は設けない」主義だった。要するに「半日は自分のために使う」というのがその趣旨。当然ながらソフトボールで身を立てるわけではない生徒らには、今しかできない体験もしておくべきだと考えたからだ。むしろ、都立高校などで放課後の練習時間に制限があるようなチームを見習った。肝心なのは練習内容、ただダラダラと「打撃練習」をしていても上達は望めない。複合的な内容をいかに試合に近い形に意識して、練習メニューを組むことが肝心だと思っていた。5年もするとこうした練習方針が、見事に結実した時がやってきた。

この部活動管理の方法は、その後の自分の研究でも活かされた。休職もせず教員をしながら大学院に行くという荒業を成し遂げた際には、何より質の高い時間を過ごすかを心掛けた。勤務先の仕事をいかに短時間で終わらせるか、空き時間を無駄にしないか、など短期集中型の丁寧な仕事が必然的に身についたのだった。研究日もなく場合によると休日に部活動がある中で、数週間に1回は巡り来る研究室の発表の準備をしなければならない。たぶん当時の僕は、2人分の時間を生きていたといっても過言ではあるまい。心掛けたのは、小さな目標を作りそこまでを丁寧に作業すること。考えてみれば高校3年時の大学受験の時に培った、時間管理術が発展的に活かされた結果でもあった。僕自身は高3の7月に器械体操部の最後の試合に出たが、そこまでは部活動を辞めなかった。「大学受験」と両立してこそ、意味があると考えていたからだ。この時に身につけた方法は、腕立て伏せでいえば「目標10回の1回ごとを丁寧にすべき」ということ。たとえ100回を時間をかけてこなしても、1回ごとの腕の屈曲がいい加減になっては効果は出づらい。要は「どれほどやるか?」ではなく、「どのようにやるか?」が成功の鍵だと知ったのだった。

小さな目標までは脇目も振らず
そして自分への御褒美を設定しておく
「忙しい」とは決して口にしたくないのは昔から変わらない信条である。


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何を大切にすればいいのだろう?ー島国らしき鎖国の中に

2022-08-12
海外諸国の様子はあまり知らされず
感染者数の累積と医療逼迫の報道なのだが
いま僕たちは何を大切にすればいいのだろう?

最近、めっきり「海外の新型コロナ事情」が報道されなくなった。ロシアのウクライナ侵攻など優先して報道すべきものがあるからなのだろうが、「ウクライナ情勢」にしてもトップでは報じられない。ここ暫くは「豪雨」や「猛暑」など日本の天候の話題がトップニュースばかりを飾っている。豪雨被害に遭われた方々にはもちろん大切なニュースであろうが、ある意味でこの島国が自然と向き合って存在することに偏った報道なのかもしれない。それにしても新型コロナ感染拡大の当初から、「島国」であるニュージーランド・台湾の施策は現実的に機能していて目を引くものがあった。奇しくも両国ともに、女性が政治的指導者の立場にある。この2国の現状の新型コロナの状況など、僕たちはまったく知らない。いやむしろ世界が「新型コロナ」を気にしないようになった、と言い換えることができるのだろう。昨日の共同通信の記事によると、WHOの集計(8月)1日〜7日の日本の新規感染者数は149万6968人で3週連続で世界最多。次いで多い米国75万人、韓国71万人の約2倍の突出した多さで、世界全体の週間感染者698万人の21%を占めるのだと云う。

ある知人が欧州に取材の仕事に行き帰国する際の感想を述べていたが、「鎖国のような検疫体制」なのだと云う。検査と陰性証明を入念に施されて帰国の途についた実感がこもっていた。欧州ではほとんどの人がマスクをすることもなく、平然と公道を歩いているのが普通であるとも云う。考えてみれば「一番マスクの着用率が高い国」がなぜ「最多感染者数」になるのかと、素朴すぎる疑問に直面せざるを得ない。この国に根付く「横並び同調主義」が、教育段階で十分に浸透しているがゆえの「マスク着用率の」の世界で類を見ない高さなのだろう。あらためて我々は意識しないうちに、呪縛のような「鎖国」の中で生きているのではないか?2年半前と何ら変わらない感染症対策、医療逼迫となる図式も改善された様子もない。このように無策の中に投げ出されたような僕らは、建前の「検疫体制」で水際を固めるフリと、どの専門家をどう信じてよいかわからぬ報道の混濁の中に身を置いている。少なくとも世界で「特異」な状況に置かれているこの島国、「行動制限のないお盆」などという言い方がTVで垂れ流される。「感染」の自己責任が際立つ社会の中で、世界を見据えて僕たちは何を大切にすべきなのだろうか?

今しかない時間を大切にするためにも
2年間マスクはして来なかったという友人もいる
あらゆる面で世界から遅れをとっていることの象徴的な数字なのかもしれない。


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スマホという魔物使用のモード変換

2022-08-11
スマホにより随時入ってくる情報
デスクにはスマホを置かない方がよいという考え方も
気軽に交流できる安心は保ちつつ

スマホの機能として「今週の画面を見た時間」が、前週と比較して増減したかを知らせるものがある。週末などに表示されてもあまり気にしていなかったが、「画面を見る時間」の管理は重要だと思い直している。スマホがあまりにも機能を持ち過ぎたために、仕事のデスクにも不可欠になっている。例えば「総合辞書データベース」(ジャパンナレッジ)のパーソナル会員に年会費を支払い登録しているのだが、研究上も検索をくり返すのは必至である。最近は講義用タブレットに検索画面を表示するようにして、研究室では専用端末的に使用するようになった。タブレットの方は「講義用」ゆえに余計な「通知」が表示されないように、「おやすみモード」に常に設定している。それに比してスマホは「即時性」が長所であろうから、必要と思われる「通知」が常に表示されるようにしている。地震などや緊急時のニュースなど、身の安全を守るためにも必要な部分はある。だがどうしても時差のあるMLBの試合結果や大谷翔平の成果だとか、調べられるものに手が出てしまうことも少なくない。

LINEを始めとするSNSの機能が、一番見る機会が多いだろう。日常でも妻や母との気軽な会話が可能であり、気になる記事の共有もできる。妻とはお互いにどんな気分で仕事をしているか心の交流にも役立ち、ある意味でストレスの解消にもなる。母なども何事もなく過ごしているか?など僕の想像上の不安(この時季だと、外出時に豪雨に打たれていないか等)を解消してくれるので、むしろLINEの定期便をくれるのはありがたい。友人らともFacebookを通じて、即時性のあるコメントができることが有意義に感じることもある。先輩の研究者などは、Facebook上のコメント欄で交流した即詠の和歌を集成して歌集まで出版してしまった人もいる。求められているのは、明らかな「モード切り換え」ということだろう。映画館や劇場では当然ながらスマホを見るのは禁止であるが、あの2時間程度は館内に流れる地震速報に身を委ねスマホの情報からは必然的に解放される。そんな「モード」を自ら作り出すことが、日常でも求められる。そういえば、小欄を書いた後の朝の散歩の際に、犬を連れながらもスマホ画面から目を逸らさずにいる中学生と出会う。以前、小学生だった頃はスマホを持たせてもらえなかったのであろう。僕などにも挨拶を交わし犬と心を交わして歩いている風であった。心なしか最近は、連れている犬の顔が寂しそうなのである。いついかなる時でもスマホを持てるようになった現代における「ヒト」、新たな「病い」に罹患しているのではないか?などと社会全体を憂いつつ、自らの「モード変換」に心を致す。

「スマホ視聴時間」を決める
より夢中になれる研究をする
外からの情報も閉ざさずに安眠の時間を確保する極意を開発すべきだ。


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