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スケザネ(渡辺祐真さん)『物語のカギ』を読み始めて

2022-07-31
副題ー「読む」が10倍楽しくなる38のヒントー
「文学」が嫌いではなく「国語授業」が嫌いだったという学生の声
「文学理論」を適切に押さえていない「国語教師」の現実を浮き彫りに

親友のライター・真山知幸氏と対話する機会を得て、「スケザネさん」のことを話題とした。書評系YouTuberとして活躍しており、俵万智さんとのオンライン対談などもある。既に2021年6月号『短歌研究』には、「俵万智の全歌集を『徹底的に読む』」という特集も組まれていた。その冒頭の自己紹介では、高校時代に文芸部に所属し『サラダ記念日』の歌に触発されて創作した短歌が、第13回宮柊二記念館全国短歌大会にて小島ゆかりさんの選者賞を獲得した思い出が綴られている。俵さんの歌集を読む契機がこの高校時代の体験にあり、「それ以来、実作することはほとんどなくなりました」とされているが、YouTubeの書評で『ホスト万葉集』や『未来のサイズ』を取り上げたことで、『短歌研究』の執筆機会も得たということだ。ある意味で「歌人」(実作を一定の範囲で継続している人)ではない視点からの歌集評として、大変に新鮮かつ的確な内容であった。どこか僕たちが「言葉にしよう」としていた「痒いところ」に焦点を合わせ言葉にしてくれており、研究者として実作者として大変に参考になっていた。

さてそのスケザネさんの初の著書『物語のカギ』が刊行(2022年7月27日)されたので、早速購入して読み始めた。真山氏も既にYouTubeにて書評を述べているが、「物語の読み方」というのを教わる機会がなかった、ということに気づかされるという所感を持つ一書である。国語教育にも携わる文学研究者として、まさに僕自身の「痒いところ」であったことを明晰に素朴に炙り出してくれている。例えば、「物語が大切にするのは『特殊性と具体性』」などは、短歌に直結した考え方として有効である。「作者の意図は正解じゃありません!!!!!」という点を「国語の授業の弊害」として強く訴えているあたりは、まさに現場の実態をあからさまにした指摘である。テクスト論としての「作者の死」の問題にも言及しているが、「国語」の現場の理解は程遠く「作者」が「正解」を持つという偏向の渦中で授業づくりがなされる。その「正解」とはいっても所詮は「指導書」とか、せめても一教師の「解釈」なのであって、学習者がどんなに多様な「面白い」読み方をしても「教室」では試験があるからと「誤り」とされてしまう。大学に入学してくる多くの学生の声を聞くと、そんな「国語授業」によって「文学」までもが嫌いになってしまっているのだ。ある意味で、僕ら現場に携わる機会の多い研究者の問題だと、甚だ自省の念を強くするところだ。現代の若者の間で、YouTubeの力は甚だ大きい。それゆえに既に講義においても、スケザネさんの紹介をしたのだが、多くの学生がそれに触発され『物語のカギ』を読んだ上で、将来は教壇に立ってもらいたいと思っている。

入試だけを目標とする「国語」の弊害も多く
「面白い」を「マンガ」や「映画」などの例も出し縦横無心に述べる一書
スケザネさんと交流できる日が今から楽しみである!!!!!


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文学は面白い!に火をつける授業

2022-07-30
各自の好奇心あるテーマ探し
「文学史」は暗記ではなく活かす
それぞれの学生らとのスピーチに光が

前期講義最終日、金曜日は年度輪番担当の「大学教育入門セミナー」講義が朝一番からある。附属図書館のワークショップコートを利用し、移動式机椅子の効果を最大限に発揮しての展開だった。「テーマ発見」→「序文」→「本を探す(参考文献)」→「本の紹介文」→「考察1」→「考察2」→「一文一義」→「論点整理」→「根拠を示す」→「参考文献の示し方」→「題をつける」概ねこのような過程を経て「学術的文章(レポート)」が書けるようになるのが大きな目標の講義だ。最終回のこの日は、究極の要約である「題」を発表し各自1分30秒程度で、自らのレポート内容を紹介するスピーチを実施。「文学」「歴史」「文化」を「宮崎」という視点から見つめた内容の多様なテーマが並び、大変に興味深かった。学生のスピーチからは「自らが選んだテーマを面白く」語っているという印象があり、学びの原点は「面白い(好奇心)」であることをあらためて考えさせられた。小中高の学習指導要領にも「探究」が大きな方向性として示される中、教員になる学生に「探究心」がなくてどうしようか、ということであろう。教師は自らが教える内容を「面白く楽しい」と感じることが瑣末な技術よりも何より大切だと思われる。

午後一番の3コマ目講義は「国文学史Ⅰ」、これもまた旧態依然の学修観だと「知識の暗記」たる科目に思われがちである。だが現代は「検索」すればいつでもどこでも一定の知識は確認できる時代、「暗記」ではなく「主体的な活用」を旨として内容を構成すべきと考えている。こちらの講義でもこの日は「音読&紹介スピーチ」、これまで14回の講義で扱った「上代・中古・中世・近世」における作品の中から、各自が最も「面白い」と思ったものの一部を「音読」し内容を紹介するというもの。学生に任せていたにもかかわらず、4時代の配分も適切で(上代・近世は少なかったがいないというわけではなく)学生たちの文学への思いを垣間見るようであった。「国語」の授業の中では、どうしても「文学作品」を「面白い・楽しい」と思える機会があまりにも少ない。「学力」を考慮しての授業づくりに教師がこだわるからだろうが、むしろそれが逆作用で学力の伸長も削ぐ結果となる。なぜなら「文学を主体的・探究的に楽しむ」意欲を、喪失させてしまうからである。「国語教師」を養成するにあたり、まず肝心なのは「文学好き」にすることだと、あらためて実感した学生たちのスピーチであった。

15回を対面講義でやり抜いた
マスクをしていてもやはり〈教室〉で出逢える豊かさ
新たな時代の「国語」へ忌憚のない突破が望まれる。


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リカバリーサンダルのことなど

2022-07-29
靴を履いてばかりでは足裏の疲労が
蒸れず動いた足を癒してくれるらしいサンダル
適切な息継ぎは必要なこと

何事も忍耐強い方だと、自分自身で思っている。小学校低学年の頃、給食が食べきれず担任の先生がスプーン一杯を強制的に食べさせたので、呑むに呑み込めず家まで口内に含んでいたことがあった。下校時の道に吐き出すことも可能だったが、それはできない性分だった。またいささかの怪我をしても保健室などに行かずに、そのまま帰宅するまで耐えたこともある。今思えばおかしな行動だが、どこか「自分で処置する」というような変な自立心があったようにも思える。プールの時間も決して得意ではなかったが、息継ぎなしで強引に25mを泳ぎ切ったことがある。後半の10mぐらいは忍耐そのものである。昭和の時代感は、どこか「忍耐」も「待つこと」も美徳のようなところがあった。その経験によって、大人になってからも様々なことに忍耐強く対応することができたという恩恵はある。特に現職教員をしながら大学院修士から博士後期課程までをやり抜いたことは、まさに忍耐の連続であった。今思えば、本当に泳ぎ切ってよかったと思う。だがあまり公表したくないような、強引な「息継ぎなし」のような忍耐があったことも事実だ。あまりにも自らを追い込み、痛めつけたかもしれない。

研究室でデスクワークをする際に靴だと足が蒸れることもあり、Web販売で「リカバリーサンダル」なる商品を購入した。運動として走ったり歩いたりした足を、穏やかに解放し回復させる機能があるという触れ込みだ。通常のサンダルよりやや厚底で土踏まずあたりが湾曲し、適度な刺激が与えられる。足裏は内臓にも関係するツボがあるとも言われ、身体にも少なからず影響があるように以前から意識していた。仕事で張り詰めていると、どうしても忍耐強く進めなければならないことも少なくない。せめて足だけでも、靴という重荷から解放しておく必要もあるだろう。この日は特に、朝から晩まで「息継ぎ」のできないような1日であった。昼食を摂るタイミングも逸して、夜まで無酸素状態で過ごしたような趣である。されど個々の対応には、万全を施して向き合った自負もある。さすがに酸欠状態となって、帰宅すると疲労感で身体が動かなくなっていた。大学前期講義も最終週、どうやら今でも「25m息継ぎなし」をしているようだ。心の上でも「リカバリーサンダル」を履くような時間帯が、求められるかもしれない。

身体や心が固まらぬように
リラックスするのも仕事のうち
まずは足裏の解放がそれを教えてくれる。


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考え方を溶かすための語り合い

2022-07-28
Web情報は自ずと小さな穴に入るように
偏って固まった考え方を話すことで溶かしゆくこと
新型コロナも然り社会を取り巻く様々なことも

「行動制限のない・・・」という言い方が、TVなどのメディアを中心に喧伝されてきた。同じ表現に向き合う人々の解釈における、負の意味での多様性を感じる事例である。概ね僕などの解釈であると、政府や地方自治体が飲食店を中心とする営業時間の短縮やアルコールの販売規制などの制限をかけることはしない。また「県外移動自粛」などの協力も求めることはしていない。という意味で「・・・GW」「・・・夏休み」の前につけ枕詞のように喧伝されたわけである。だがこれは決して「安全宣言」ではなく、旅行割引再開などを目論み「社会経済を回す」という政府の思惑や多くの人々の願望から発せられた表現である。注意すべきは「制限のない」ということイコール、「コロナに感染しない」ということではないこと。誰しも「3年ぶり」は楽しみたい、だが「行動制限のない」ながら「感染対策は変わらず徹底する」ということが前提であっただろう。言語表現の多様性は担保されるべきものであるが、多様さの中での「ひとり歩き」や「思い込み」については慎重に考えねばならないことを学ぶのである。

母が役所で必要書類を取得する必要があり、午後は休暇を取って車で伴った。馴染みになったその窓口に来ると、母父が宮崎移住により転居届を提出した際のことを思い出す。先日も牧水賞授賞式で挨拶をする際に、伊藤一彦先生が河野知事に向けて「先生は宮崎の人口を増やすことに貢献した」という趣旨の紹介をいただいた。県をあげて歓迎されているようで、誠に光栄なことである。母の書類取得も順調に済んだ昼下がり、せっかくなのでゆったり話ができるような場所がないかとスマホで探した。ちょっとした裏道に感じのよい家庭的なカフェがあるのを発見。行ってみると予想通り、しゃれたインテリアで手作り感ある軽食を出す店であった。座席は今もアクリルボードを挟んで向かい合う感染対策が施され、天井が高く広めの店内であるゆえに他の客との距離も十分だ。この夏に計画していた「親戚会」を断念したことの正否とか、今後の社会のあり方など、お互いに多くの話題を話すことができた。誰しもがそうであるが、スマホは多種多様な情報が得られると思いがちだが、自分が検索する穴の中にどんどん嵌りゆくごとく偏っていくことを知るべきだろう。また昨今は、TVの情報も偏りや規制がありやと疑わしいことが少なくない。もしや「行動規制のない・・・」の解釈の偏向が、この感染大爆発を生み出したのだとすれば、情報の扱い方に僕らはもっと慎重にならねばなるまい。

話をすれば思い込みが溶かされていく
この困難な時代への向き合い方
まずは身近な家族と十分に話をすることだ


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俵万智さん連載「海のあお通信」73回「若山牧水賞」

2022-07-27
新聞休刊日で火曜日に掲載
一段目に自らの名前を引用いただくありがたさ
宮崎に生きてこそ・・・

宮崎日日新聞に通常は第4月曜日に掲載される俵万智さん連載「海のあお通信」、新聞をポストから出し一面に案内欄があるので何より先に25面を開き読み始めた。10行ほど読むと所属大学名入りで自らの名前が文面に刻まれているのを発見し、朝から誠に嬉しい気分になった。「何が?」と朝食の準備の台所に立つ妻が言うので、そのまま10行ほどを音読して聞かせた。内容は小欄の7月19日付記事で紹介したことでもあるが、伊藤一彦先生が受賞者紹介のスピーチで「これは宮崎大学の中村佳文先生が気づいたことなんですが、7月18日というのは牧水の第一歌集『海の聲』の発行日でもあるんです。」(以上、俵さんの連載から引用)という気づきの紹介である。実を言うと「海のあお通信」には、「友人に勧められ(その友人が僕)」とか「主催する学会(主催したのが僕)」などと間接的に実名はわからないように僕自身が登場したことは何度かあった。だが今回も伊藤一彦先生の紹介スピーチの内容とはいえ、字数に限りがあるコラムに実名で登場させてもらったのは、誠に栄誉なことであるように思う。

奇しくも俵さんの著書『あなたと読む恋の歌百首』(文春文庫2005)テキストにしている前期15回「日本の恋歌ー和歌短歌と歌謡曲」の最終回を迎える日であった。この日にはなるべく多く受講学生からの声を講義で紹介し、その質問などに答えていくという視聴者参加型ラジオ番組の趣向で進行。「恋」を短歌で「体験」できて大変に貴重な機会であったという声をはじめとして、比較対象として紹介した「歌謡曲が胸に刺さった」などという声も多かった。この講義で扱った曲を自らの音楽プレイリストにダウンロードするとか、短歌が身近になり親しみが持てたなどという声も多く誠に嬉しかった。それもまた俵万智さんの著書において学生に受け入れやすい「恋の歌」が選歌されており、その評がわかりやすくかつ深く書かれていることにだいぶ助けられているように思われる。今年で4年目となる講義は、初年度120名、2年目240名、3年目150名、今年は100名と累積すると既に約600名の受講者となる。同文庫はちょうど講義を始めた年の2019年8月に5刷になっているが、僅かながらでも売り上げに貢献できているようだ。最終回の講義課題は題詠「日」の短歌、宮日俵万智短歌賞へ応募することができる当該の題詠である。「短歌県づくり」において俵さんは欠くべからざる大きな存在だが、若い学生たちが一人でも多く「短歌」を愛好してくれることが、全学部対象科目としての大きな目標にもなっている。

早稲田の縁・みやざきの縁
お互いに宮崎の食材を通した交流も
本当に宮崎で短歌に関われる自らのこれ以上ない運命を感じている。


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清潔一掃を求めすぎた近現代ーカビ取りの理屈

2022-07-26
風呂場などの塩素系カビ取り剤を使用して
大変に綺麗になるが人間にも「まぜるな危険」あり
近現代約150年が成して来た清潔一掃がもしやいま地球を

最近よく聞かれるのが「ウイルスを必要以上に恐れない」という謳い文句である。約2年半の間、全世界が新型コロナに翻弄されて来たが、「適切な付き合い方」を意識せよということなのか。もとより細菌と共存して生きている人間が、細菌を排斥したら自らの存在意義を危うくしかねない。腸内細菌が免疫力に大きく作用していることも、やはり科学で明らかになって来たことだ。「ゼロコロナ政策」を採れば自ずと、強制的な隔離や排斥主義による感染者への選別が実行されることになる。実行されることは子ども間の「いじめ」にも類似しており、「感染」を悪と決めつけ対象を排除するという図式である。折しも新たにWHOが「新型コロナ」からこれほど短い間隔で「緊急事態宣言」を出した「サル痘」なる感染症が、国内でも一例目として確認された。世界的に「根絶」が宣言されている「天然痘」に似たウイルスなのだ、との情報が一般的である。まったくの素人考えを承知で記すが、もしや「根絶」されたゆえに亜種となって再び世界に流行するという理屈があるとしたら、「SARS」の亜種としての「新型コロナ」というのも理解できる。結局は「根絶」「撲滅」しようとする人間の考えが、ウイルスの立場では「猿知恵」に過ぎないのかもしれない。

先の日曜日に、自宅風呂場の床を清掃した。床材のメジにカビが発生するので、カビ取り剤を散布する。しばらくおいて水で洗い流すと実に綺麗にカビは一掃されるので、重宝している家庭用漂白剤の一つである。だが周知のように、使用には注意が必要だ。肌に付着しないように手袋、発生するガスを吸い込まぬようマスク、可能なら目など粘膜への飛散を防ぐためのゴーグル、などが推奨されている。また所謂「まぜるな危険」という表示は、酸性タイプの洗剤と混ぜると有毒ガスを発生するという警告である。ある意味で「化学」の基本的な知識をもって使用しないと、人体にも害を及ぼす可能性があることを知るべきだろう。過去には「有毒ガス」による事故などの事例の報道に接したこともある。確かに大掃除でやや大量に散布した際に、気分が悪くなった経験がある。便利な製品であるゆえに、あくまで適切な使用を遵守する必要がある。気になるのは、「根こそぎ」という発想が「天然痘」などと同一であるということ。あくまで「根絶」は一瞬の幻想に過ぎず、カビがまったく無くなることはない。むしろ、こうした化学的な近代化による「清潔一掃主義」が蔓延った果てに、地球はいつしか異常な高温となりウイルスは再生のために強化され現状のような世界的なパンデミックの要因になってはいないかと憂えるのである。

「持続可能な社会(SDGs)」と喧伝するからには
現状が「持続不可能」であるという警句を含むのではないか。
「サル痘」が僕たちの新たなる憂えにならぬよう理性ある対応が望まれる。


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写真と記憶とー保存されているものを活かす

2022-07-25
スマホが日常携帯化して誰もがいつでも写真を
スマホには「容量」があるが人間の記憶はどうなのだろう?
蘇るあのシャツ・蘇る親戚の面々

現代社会はスマホの普及によって、いつでもどこでもどんなことでも「写真」に残せるようになった。たぶん「誰かがカメラを所持していなければ写真が撮れなかった」時代から、「写ルンです」など「箱型簡易カメラ」の時代を経て、時間進行とともに世の中の写真は激増しているはずである。それだけにスマホで撮影して「終わり」という簡易さが、「写真は貴重なもの」という意識を薄くさせたのも確かである。正直なかなかスマホ内の写真を整理することはなく、振り返る機会も少なくなったのではないだろうか。「カメラ(写真機)」の時代であれば、フィルムを街のカメラ店に出して現像が出来上がるまでが楽しみで、仕上がると様々に身近な人と話し合いながら楽しんだものだ。僕は「写真撮影」という「保存方法」をことさら大切に思っていた傾向があり、小学生の時に無理矢理に母にせがんで「カメラ」を買ってもらった記憶がある。小学校の学級内で「新聞委員」を務めていたこともあり、区内の公園などを「取材」と称して出かけては「撮影」をして「記事を書く」などしていた。「事実を写真に残す」という意識が大変に強かったと振り返ることができる。

母が久しぶりに昔の写真を引っ張り出したというので、ともにしばらく見て語り合う時間をとった。主に母方の親戚との幼少時の写真で、見るたびに当時の記憶が蘇ってくる。時折不思議に思うのは、このように写真があるから記憶も鮮明に刻まれ続けてきたのか?それとも記憶が特段にいいのか?自分では判断がつかないことである。あらためて写真を見ると、その際に着ていた「シャツ」がお気に入りであるとか、その際に「叔母さんが迎えにきた」とか鮮明に記憶として蘇るのである。スマホでは「写真保存容量」としてデータ量に制限があるが、人間の脳の「保存容量」の無限さを感じる。またそれぞれの写真に映る人々が、蘇るのも大きな意義だ。親戚の人々は「こういう人であった」など、既に鬼籍に入った人などを回想することに魂の供養という意味合いもあるだろう。更にいえば、母方の親戚を辿ると江戸時代生まれの曽祖父、明治初年生まれの曽祖母の存在を確認できて、「近現代150年」の歴史の中に自分が生きていることが位置付けられる。このような意味で誠に写真を見返すことは、重要な人生の確認作業だと思う。小学校の修学旅行の集合写真などもあって、「日光東照宮」を背景に学友が顔を並べる。思わず「当時はこの女の子が好きだった」などと思い返し、叶わぬ恋の経験も「再読」することができた。「過去」は決して失われるものではない、「あの日々」の蓄積の上に僕たちは生きているのである。

笑うのが下手だった少年時代
多くの人々に支えられて笑顔の自分になって来た
生きることの年輪を時に再起動させる必要がある。


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宮崎大学公開講座「牧水をよむ」第1章「永遠の旅」その3「恋」

2022-07-24
「海見ても雲あふぎてもあはれわがおもひはかへる同じ樹陰に」
「風わたる見よ初夏のあを空を青葉がうへをやよ恋人よ」
「髪を焼けその眸つぶせ斯くてこの胸に泣き来よさらば許さむ」(第一歌集『海の聲』より)

宮崎大学公開講座本年度第3回目、第一歌集『海の聲』によむ「恋愛ー牧水と小枝子」を開催。この日は宮崎市中心で「えれこっちゃ宮崎」の祭りが開催されており、多くの人々が浴衣姿やダンスの装束などで沿道に溢れかえっていた。こんな暑い夏を感じさせる光景を見つつ、宮崎大学まちなかキャンパスに向かった。今回はまさに夏の暑さに負けじと劣らない、若き牧水の「恋愛」を歌から読み解く講座内容である。まだ牧水が学生だった頃、親友の人間関係を理不尽だと憤慨し既に日向まで帰省していた牧水は神戸へと引き返す。そこで偶然にも出逢ったのが、園田小枝子という女性である。もとより現代では考えられないほど友情に厚い牧水の純粋な心が、小枝子という魅惑の存在に触れて突如として発火したような恋の始まりである。冒頭に挙げた一首目は、伊藤一彦先生が選んだ歌、東京の武蔵野を二人で歩いた後に帰省の途次に中国地方を歩いている際の歌。二首目が僕の選んだ歌だが、いずれも爽やかな恋人との恋愛がよめる歌である。伊藤先生曰く、旧制延岡中学校での生活は周囲に男性ばかりだったこともあり、大学生となり東京に出た後に知り合った小枝子にには、「大人が麻疹(はしか)にかかるように高熱が出た」のだと云う。日向に帰省した際の牧水もまた、常に小枝子のことが脳裏から離れない歌が多く見られる。

「ああ接吻海そのままに日は行かず鳥翔ひながら死せ果てよいま」伊藤先生と僕が共通に選んだ歌は近代短歌史上、究極の「接吻(きす)」の歌。俵万智さんの『牧水の恋』(文春文庫)に詳しいが、千葉の根本海岸で牧水が小枝子と結ばれた際の絶唱である。この根本海岸で二人で過ごした時間こそが二人の恋愛の頂点でもあり、次第に坂を転がり落ちるように恋に陰りが見え始める。もとより小枝子は人妻であり、姦通罪がある当時としてはまさに禁断の恋。根本海岸にも小枝子の従兄弟に当たる赤坂庸三ふが同行しており、俵さんは「カモフラージュ」も施していたと読み解いている。冒頭の三首目の歌は、思わせぶりながらどっちつかずの小枝子に身を削って詫びを求めるような歌。伊藤先生は「君かりにその黒髪に火の油そそぎてもなほわれを捨てずや」を選んでおり、激しい「怨言(かごと)」などを投げかけた牧水の心の苦しさも伝わってくる。「君を得ぬ」とは言いながら、愛の海に「白帆を上げぬ」と邁進しようとしても「何のなみだぞ」と自問する牧水。どのような状況であっても、牧水の純朴さがまずは読み取れる歌に真に人としての良さを感じ入ってしまう。この純な牧水の恋の思いに、受講者とともに若き日の自らの恋とも重ねわせ、実に豊かな「永遠の恋愛」が各自の中に宿るような講座内容となった。

「山ざくら花のつぼみの花となる間(あい)のいのちの恋もせしかな」
激しい恋愛に磨かれて表現者として成長した牧水
愛する相手にも文学にも、向き合うのは命懸けであることをあらためて学ぶのである。


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江戸時代から受け継がれたもの

2022-07-23
文学史(概論)14回目の講義
江戸時代の読本・滑稽本について
幽霊・珍道中・勧善懲悪などは現代にも

前期講義もあと1週間、最後のまとめを残して14回目を実施する週だった。担当する「国文学史Ⅰ」では、今年度から「日本文学概論」ともいえる内容にリニューアルした。昨年度までは時代で分割し「上代・中古」を扱い、「中世・近世」は「国文学史Ⅱ」で扱っていた。だが大学1年生の時点ということと小学校免許を中心に取得する受講生も多いことから、「概論」的な内容が求められると思いをあらためた。現在は小学校の教科書にも「古典教材」が見られるようになったが、現場の先生方は「音読中心」によって「古典に親しむ」という指導要領上の趣旨の扱いには苦労しているのが現状のようだ。もとより、先生方の「古典教材」に対しての基本的な認識が十分ではない。場合によると高校時代の「古典文法アレルギー」を自ら引き摺りながら、”やむなく”小学校で古典教材の授業をする先生方も少なくないと聞く。本学部の特徴である「小中一貫」の方針からすると、小学校教員でも「専門性の高い」教員の養成が期待される。ゆえにせめて文学部に設置されている「日本文学概論」程度の内容は理解しておいて欲しいという願いを体現したものだ。

この日は江戸時代の「読本・滑稽本」をテーマとした。『雨月物語』の怪異幽霊譚、『東海道中膝栗毛』の旅先の滑稽な失敗譚、『南総里見八犬伝』の勧善懲悪譚、いずれも現代の様々なサブカルチャーなどに影響のある作品ともいえる。三作品の概要を話した後、受講学生たちが興味を持てそうな内容について個々にコメントを求めた。怪異譚では「人間が人間でないものに化ける」という構造こそが、ゲームやアニメで頻出する内容であるという指摘。「化ける」ということは人間が自らの存在意義を確かめる行為であることを思わせた。受講者のコメントが多く集まったのが『膝栗毛』、「滑稽」であることは娯楽に通じ、現在でも「お笑い」が一般的であることに通じるという内容が多かった。「笑い」にはどこか風刺の要素もあり、社会に不可欠な自浄作用をもたらしていることに気づかされる。勧善懲悪譚は儒教倫理に連なるのだが、ウルトラマンや仮面ライダーに戦隊物など、学生らが幼少の頃から身近に感じてきたものも全てはその類型だ。八犬士の「仁義礼智忠信孝悌」などについては、僕の父などは学校の学級名が「仁組」「義組」だったと聞いたことがある。さすがに学生に馴染みは薄いようだが、江戸時代からこうした倫理が明治以降もそれほど遠くない時代にまで生きていたことを考えさせられる。現代とつながる要素が大きい江戸文学、ほとんど古典教材として活かされていないことは誠に残念な状況である。

古典芸能や時代劇から学ぶ感覚も大切
明治以降の154年を相対化した上での古典学習へ
文学が後退するのは教員養成の方針にも拠るといえるであろうか。


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何もしないという方法ーどうなるこの感染

2022-07-22
個人がいかに自らを護るか
「検査拡充・治療薬開発認可・医療体制整備」
欧米と何が違うのだろうか?などと思いつつ

かなり久しぶりに、感染拡大がトップニュースのトレンドに上がってきた。今年度になったあたりから「行動制限」などはもはや有効ではなく、「日常生活をとり戻す」ことが重要な課題という風潮で社会が回り出した。大学では「原則対面授業」が貫かれ、教職員の行動制限は次第に緩和する一方である。その流れを嘲笑うかのように感染者は次第に増えて、昨今ではかなり身近になってきた。全国の感染者数は18万人、宮崎県でも過去最多の2000人超、東京都は初の30000人を記録することになった。無症状や軽症の人が多いとは言いつつも、感染者数が増えれば重症者や死亡者も必然的に増加する。プロ野球選手の感染も相次いで報告され、状況に応じてはオールスターゲームの開催が危ぶまれる声も出始めた。東京の親友とのやりとりによると、クリニックなど医療体制はかなり厳しい状況で医師や従事者の方々の労力は限界を超えているように見えると云う。この2年半、こうした「医療体制整備」は常に指摘されてきたわけだが、未だにほとんど改善されているとは思えない。もちろん早期の開発が見込まれたような報道もあったが、「治療薬」などが実用化される目処もない。

かたや映像で、MLBオールスターゲームでの大谷翔平さんの活躍を目にする。選手間の交流は密であるし、ファンサービスもしかり、スタンドは超満員で飲食をしながらファンが大声で熱狂する姿が映し出されている。それでも昨シーズン、チームによってはクラスターで戦力を欠く戦いを強いられたチームも散見した。現在はほとんどそんな心配もなく、シーズンを順調に消化しているように見える。「バイデン大統領陽性」というニュース記事も読んだが、それほど大事には扱われていない。米国に限らず、欧州でも「行動制限の解除」という報道を多く耳にする。世界は3年目に入り「動き出した」のは確かである。どちらかというと昨年あたりに、我々は米国や欧州での感染拡大人数に驚かされていた。それに比して日本で第5波・第6波とはいっても感染者数は抑えられた印象を持っていた。欧米と何が違うのだろう?という感覚は常に表裏の関係で、僕たちを惑わさせている。最近はほとんど「政府の分科会」など、専門家の意見も聞かれる機会がほとんどなくなった。「日本版CDC(疾病予防管理センター)」の創設など、この2年間に何度口先だけで唱えられたのか?もはや意図的に「何もしない」という方法が採られる中で、僕ら個人が自らの身体を護るしかないのであろう。

夏休みに入り今後の社会活動は
免疫力のある身体をなどと常に心がける
もとより「何かしてくれる」という感覚が幻想であったのだろう。


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