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その電気!果たして必要なのでしょうか?

2022-06-30
「この電力」は本当に必要なのか?
「(電力に)お金をかけて身体を壊してどうするのでしょう?」
近現代化した身の回りの生活をあらためて考えてみる

自宅トイレの便座上の蓋が壊れた。トイレ内に入るとリモコンに搭載されたセンサーが反応し、便座蓋を電力で自動開閉させる高級な商品である。当初はこの商品を選ぶつもりはなかったが、電器店がサービスだと値引きを提案したためにこの代物になった。慣れれば手で開ける手間もなく、閉める際もバタンと強く当たらず快適な便器使用に次第に慣れてくる。だがまだ購入してそれほど経過していないのに、今回で2度目の故障である。比較的僕が幼少の頃から、ある国内著名電気メーカーへの信頼は両親も厚く、「故障しない」というイメージがあったが、ここに来て洗濯機の故障にも遭遇し考え方が変わりつつある。もとより、便座蓋の開閉に電力使用そのものが必要なのか?という疑問に立ち返る。家電品が「便利に」いう開発競争の中で、本来は不要なものに電力を使用する製品が増えたのではないか、などと考えてしまう。老人などが初めて入る他者の家のトイレで、自動開閉した蓋に腰を抜かしたという笑い話も聞いたことがある。考えてみれば多くの店舗が自動ドア、コロナ禍で接触を避けるという発想からさらに拍車が掛かった分野ではないか?確かに自動でないドアの「押し引き」ノブなどへの接触は、気を使わざるを得ないのだが。

東日本大震災の後、東京も計画停電などが実施され、公共の場所の電力使用が控えられた。街灯は暗くなり、地下鉄を始め駅のエスカレーターは停止し階段を使用するのが「普通」になった。もとよりなるべく自らの足で歩くべし、と考えている僕はそれ以前から駅などでも階段を使用していた。現在も東京などへ行くとエスカレーターは動いているが、あまり人の使用しない階段を昇り行く偏屈者である。また大学では基本的に「エレベーターを使用しない」と決めており、よっぽど多くの荷物を持っている時以外は使用しない。研究室は4階なので1日にすると20階から30階のビルを階段で昇り降りしている計算になる。だが一向に億劫でなく、むしろ健康に貢献している行動だと思っている。中高教員だった頃、保健室の養護教諭が全校朝礼で「(エアコン電気代に)お金をかけて身体を壊してどうするのでしょう?」と訴えたことを覚えている。教室のエアコンは強めると一定の座席に風が直接に集中し、間違いなく当該の座席の生徒が夏風邪を引く。若い身体は当然ながら熱量が多く、授業に行くと極端な設定温度や風量にしているのは今の大学でも同様だ。昔を思えば、大学の教室にはエアコンがなく、図書館の特定な部屋とか学生読書室の一部にしかエアコンはなかった。ここまで温暖化して6月からこの気温、どうやら人間は自らの「便利・快適」に溺れて自らが「エアコンなし」では危険な環境を作って来てしまったようだ。近現代の「便利・快適」が、自然な人間の身体を変質させ地球までもを壊してしまいかねない。

エアコンは適切な温度で
家の中では待機電力のコンセントは抜いている
研究室の照明も三分の一にし節電に協力してみるのであるが。


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もの言わぬ日本人にこそ短歌を

2022-06-29
ポーランドの大学准教授が講義参観
「牧水と恋ー宮崎に生きて引き継がれるもの」
短歌こそ日本人のために!

今年度「地域デザイン概論」という科目の1回のみの担当依頼があり、この日が講義日であった。宮崎の良さを知り宮崎をデザインし活性化した地域とすることを意図した学生たちの、全学共通科目である。地域資源創生学部・工学部の学生さんなど16名が受講していた。もちろん僕の講義題は冒頭に記したように「牧水と恋」、牧水が故郷としての宮崎をどう表現しどう思っていたか?そして若かりし頃の恋に身悶えたことでどのように人間的に成長を遂げたか?を短歌の表現とともに考えた。どうやらこの講義では学内の多様な分野の先生方が毎回講義をしているようで、人材育成事業に関連した社会的・科学的な分野の内容も多いようだ。そこに趣の違う「短歌」があることは「宮崎の地域デザイン」として意義あることだろう。「短歌県日本一」は、決して掛け声のみにあらず。牧水の歌はまず再開発も進む「青島」の歌碑の歌よりスタート、受講する学生らと同じ大学3年生頃からの激しい恋に落ちた「小枝子」のことも紹介しつつ、「接吻(キス)」の歌や教科書掲載「白鳥は・・・」の歌にも恋の背景があることを述べた。また祖父・父が医師であったのを継がずに「文学の道」を志した牧水の「意志をまぐるな」と貫く姿勢を短歌とともに紹介した。

この日は冒頭に記したように、宮崎に調査研究で訪れていたポーランドの大学准教授の先生が参観をご希望し教室に見えた。現在ポーランドはウクライナの隣国として避難民の受け入れなどが一番多く、欧州でもNATO側の拠点として諸々の局面に立たされている国である。日本語も堪能で長く日本に関連したことも研究していらっしゃるようだ。講義中に先生ご自身からも披露されたが、ポーランドには短歌や俳句を愛好する人々も少なくないと聞く。ということもあってか、先生は大変に興味深く僕の講義を聴講し感想も述べてくれた。特に感じ入ったのは、次のような趣旨のことをおっしゃったことだ。「日本人は自分の意見を言わない。だからこそ短歌という形で自分の気持ちを表現すればいい」ということだった。欧州の人からすると、今もなお「日本人は自分の意見を言わない」ように映るらしい。意志表示をしないことは、選挙の投票率にも社会的な運動の少なさにも象徴的だ。欧米ではウクライナ侵攻への反対集会とか物価高へのデモなどが、躊躇なく一般市民の手で行われている報道を目にする。こんな「表現しない日本人」が1300年も守り抜いている表現、それこそが短歌なのである。

「歌」は「訴え」という語源説を紹介
国際交流の視点の大切さをあらためて実感
世界を視野に宮崎で短歌に向き合う。


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「涙わりなしほほゑみて泣く」葛藤ありてこそ人の心

2022-06-28
「海を見て世にみなし児のわが性は涙わりなしほほゑみて泣く」(若山牧水『海の聲』)
「プラスかマイナスか?」「ネガティブかポジティブか?」
視点を据えたら融合や反転を試みてみよう

参議院選挙が近づているが、果たしてその争点は?投票率の異常な低下には歯止めがかかるのか?10代20代の投票率が問題にされるが、他の世代も見本になるほどの数なのだろうか?誠にこの国の政治への参加意識の低さや社会への問題意識の薄さには甚だ憂えを抱かざるを得ない。既にふた昔・20年ほども前になろうか、「郵政民営化に賛成か反対か」と与党が争点を明確にして実施された総選挙があった。今にして思えば郵便保険の杜撰さや土曜配達の廃止など、民間企業宅配業者にサービスも利益も凌駕され競争力のない宙吊りな「民営企業」となってしまった。20年でさらに過疎化は進み、街の拠点であった郵便局の役割を失った場所が多いことだろう。人員削減が甚だしいのか、郵便窓口の職員さんの人間的な親しみの笑顔も消えてしまった気がする。高齢化社会でこそ郵便局は、多くの高齢者の頼みの綱であったはずだ。というように争点をバラエティー番組の安易な「クイズ」のように「○か✖︎か」で問いかけることそのものが、「思考停止」への一歩目であるように思う。4ヶ月を経て未だ終わりの見えないウクライナ侵攻でも、ロシアの長期独裁政権が自らの強硬な政策に「✖︎」を唱える勢力を排除したことが、許しがたい暴力の要因にもなっている。

傾向を読んだら反転や融合を考えてみる。文学には喩えようのない葛藤が見え隠れし、それこそが人間の心そのものだろう。冒頭に引いた牧水の歌は、そんな人間の「性」を素朴に表現したものだ。「涙わりなし」と「涙のわけは道理ではわからない」もので、「かなし」という一面的のみで捉えられるものではない。「かなし」にも「愛し」に通ずる感情の断片もあり、例えば「ピエロのほほゑみ」の背後には「悲哀」が潜んでいる。「泣く」ことも「悲し」に端を発するが、向き合う対象への「愛情」があってこその「涙」ということになろう。言葉を言葉の額面通り捉えることも使用状況によっては必要であるが、僕たちが自分を見つめて捉えきれないのは「額面通りではない言葉にならないそんな時」があるからだ。たぶん多くの芸術表現がこの狭間を往還し、融けあい円環的に作用し合う真実を見つめようとしている。人生を生きていれば「額面通り」ではないことに直面することの方が圧倒的に多く大切であるはずだ。ゆえに特に大学入試を通過してきた学生たちが「正しいか誤りか」で問う傾向が強いのを、「文学」こそが反転や融合へ導く大きな学びのステージとなる。あなたも「・・・は〜だから」という思い込みで物事を考えていないだろうか?恋の拒絶を表現した贈答歌は「額面通り」で終わりではない。「行きません」には、「行きたいです」の心が含まれるのが人間の面白いところである。

「わかりやすさ」を追い求めるゆえに罠あり
「○か✖︎か」は一方を排除する図式である
「涙わりなし」という牧水の歌から学ぶことは多い。


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先生はつくるー『日之影大吹哀歌』(第10回岡田心平賞受賞作品劇団ゼロQ公演)

2022-06-27
「私たち女郎はさ、ここで死んで山に埋められて、
 そこに石を置かれて終わりさ、
 名前もなけりゃ、墓なんてありやしない」(『日之影大吹哀歌』より)

山に登り自らの足で歩き発見したことへの驚き。そんな激しい情動をそのままにすることなく、「表現」することは人としても大切なことだろう。宮崎県日之影町見立地区五葉岳入り口に「大吹(おおぶき)鉱山跡」があると云う。そこは天正10年(1582年)に鉱脈が発見され寛永8年(1631年)に操業が始まり閉山される明治の初めまでは1000人規模の人々が鉱山労働者やその家族として住み、行商人が行き交い遊郭までもあった賑わいを見せていたと云う。こんな宮崎県内の放置すれば埋もれてしまいそうな歴史に焦点を当て、一人の「女郎」と新たに遊郭に売られてきた14歳の女性の生き様を描いた戯曲が『日之影大吹哀歌』である。多くの女郎たちが、家族の食い扶持を稼ぐために女郎屋に売られ、年季が明ける直前になると後悔と未来の展望に失望し自ら命を断つ者も多かったのだと云う。「女郎屋」の旦那と番頭のえげつない策略に騙され、純粋な恋心を利用され踏み躙られる女郎「お清」、その下で年季奉公を始めたばかりの「お栄」は耐えきれず「女郎屋」から、ある者の助けを借りて逃げ出すという哀しき物語であった。

この作品が本年「第10回岡田心平賞」を受賞した。綾町を拠点に宮崎の演劇に功績があり38歳で急逝された岡田心平さんを顕彰し、宮崎県内で書かれた戯曲作品に与えられる賞である。演劇をすること芝居で訴えることの尊さを岡田心平さんの意志を受け継ぎ、表彰される作品のリーディング劇を観るのが毎年楽しみだ。昨年も懇意にする県内高校の国語教師である方が受賞し、奇しくも今年もやはり以前から「高校国語研究会」などで交流のあった高校国語教師の方が受賞した。新学習指導要領では学校種を問わず、学習者に「創作」を通して学ぶ「学習活動」を重視した内容になっている。短歌・俳句・詩・物語・小説・戯曲(脚本)等々、制作する過程を通じて原作やモチーフとなる教材の読みを深め、また想像力や表現力を育むことを意図している。だが大きな問題は、学習者である生徒・児童には「創作」をやらせるのだが、指導者である教員が「創作」の経験がないことだ。何も本日の話題のように受賞を果たす作品を、全ての教師に書けと言っているのではない。少なくとも学習者とともに作品を制作してみるなど、その「創作」にはどれほどの意義があるかを自ら経験して理解しておく必要があるのではないだろうか。現場では往々にして「音読活動」一つをとってみても、CD音源使用などで教師自らが「逃げる」ような姿勢が残念ながら目立つ。こうした意味で、宮崎県立高校の「国語教師」が2年連続で「岡田心平賞」に輝いたのは、県の「国語教育」にとっても誠に大きな成果であると思う。

高校演劇部の部員たちとともに創った作品とのこと
宮崎の哀しい歴史に高校生演劇部員が向き合う意義も
またあらたにリーディング劇に出演したい衝動を覚えた公演であった。


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宮崎大学公開講座「牧水をよむ」第1章「永遠の旅」その2「故郷」

2022-06-26
「われ歌をうたへりけふも故わかぬかなしみどもにうち追はれつつ」
「父母よ神にも似たるこしかたに思ひ出ありや山ざくら花」
「しとしとと月は滴る思ひ倦(う)じ亡骸(むくろ)のごともさまよへる身に」

毎月第4土曜日に開講している公開講座「牧水をよむ」第2回目。ゲスト講師に伊藤一彦先生をお迎えし、宮崎市中心部「まちなかキャンパス」で実施している。「第1章」としたのは、牧水の第一歌集『海の聲』をテーマごとに読んでいる。毎回、テーマに即した歌を伊藤先生と僕の双方が10首を選び資料としている。同じテーマゆえに共通した歌もあるが、双方の問題意識で違った歌があることも大変に興味深い。これこそが短歌や牧水の多様性であり、一面的な見方に終始しない短歌史に名を遺す歌人の普遍性のようにも思う。各自が創作した歌会でもそうだが、「わかりやすく人気を集める歌」が秀でているとは限らない。多様な解釈を赦し永遠の問い掛けに呼応する歌こそが名歌と言えるのだろう。今回はそのような「歌会」の方法も講座の展開に応用し、受講者のみなさんに資料の中から「好きな歌」をそれぞれ1首ずつを選んでもらった。その歌にコメントをいただいた中には、受講者のみなさん自身の「故郷観」がよく表れていた。「故郷の地形」「父母の影」「みやざきの素晴らしさ」等々、牧水が歌として遺した「永遠の旅」の中で、よむ我々の人生が投影される機会となる。

第1歌集のしかも巻頭歌は、大変に重要だ。冒頭に記した1首目が牧水の巻頭歌で、「歌をうたへり」ということの様態が「故わかぬかなしみどもにうち追はれつつ」だと云う。「かなしみ」をひらがなで表現しているのも多様な語義への解釈を許容し、「哀し」「悲し」「愛し」など古語への思いが広がる。読者は巻頭歌で「謎かけ」をよんだ気分になり、先の歌をさらに読みたくなる。また「あとがき」も重要であり、そこにある歌人の思いや訴えにこそ歌集を読み進める誘惑があると伊藤先生の弁。意図せず「第1歌集制作論」も披露され、歌作に取り組む方々には大変参考になる内容となった。また牧水は「世にみなし児のわが性(さが)」と詠むが、「涙わりなしほほゑみて泣く」とあるように孤独の心の二面性を詠む。富国強兵政策が吹き荒れる明治40年代にさしかかる頃、これほど「(男が)かなし」を詠むことには勇気が必要だっただろう。だがその素顔の心を詠むのも、牧水の純朴さである。そしてやはり「故郷」といえば「父母の歌」、「母恋し」「父母よ」「日向の国」など「初句切れ」の韻律を模索しつつ、「父の威厳」そして「母への絶えない慕情」を詠む。十二歳から故郷を離れ延岡で学校生活を送った牧水、二十歳には文学を志して東京へ。思春期に母とともに過ごしていないことが、一生涯にわたり「母」を慕う要因にもなったのではと伊藤先生。「故郷」の旧友たる日高秀子の夭逝、「蟋蟀(こおろぎ)」の声に「涙もまじるふるさとの家」、そして「大河」は「海避(よ)けて行け」という思いは、やはり故郷の坪谷川が世界に宇宙に連なるもので、自らが旅に自然に永遠に歩み続ける象徴でもあっただろう。

宮崎県南部の無医村に出張していた父を訪ねた際の歌も
「わだの原」「檳榔樹」「都井の岬」
次回7月はいよいよ「牧水と恋」の回となる。


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「作者ありき」より「表現」に考えよ

2022-06-25
「清少納言が書いたから・・・」
ではその性格や性質はどこから得た情報なのだろう?
「文学史」が〈教室〉で教えられる際の誤解

「歌会」という方法は、実に「文学」をよむ上で機能的で適切に作られていると思う。出詠された短歌を「無記名」一覧にして、「作者」の情報は消去して「表現」のみに焦点化して批評するからである。「情報」はあくまで「三十一文字(みそひともじ)」のみ、その表現力が問われ読み手に伝わり共感や驚愕を感じさせるものであるかどうか?を語り合って、「このような点を言いたい歌ではないか」とか「作者の・・・のような心が読める」などを語り合う。くり返すが勝負は「三十一文字」のみ、「このような事情だから」という付帯状況の言い訳を添えるわけにはいかない。この「方法」こそが、まさに「文学を読む基本」といってもよいだろう。夏目漱石・森鴎外や芥川龍之介がどんな人物かは知らず、「女ったらし」な面だけが一人歩きする太宰治の『走れメロス』という作品を中学校教科書では「信実と友情の物語」として教える。いま現在活躍中の作家であっても「村上春樹の意図」などは計り知れない。歌会と同じように僕たちは彼らの小説をその「表現世界」の中だけで味わい想像し受け止め、個々の多様な思いを抱くものだ。

「国文学史」という科目を担当していると、前述のような思いを強くし受講者に誤解なきようにと啓発する機会が多い。なぜか中高の勉強を続けてきた学生たちに聞くと、「清少納言はこんな人だったからこう書いた」とか「吉田兼好だからこそこんなことを書く」といった立場からの物言いが多い。特に古典の場合は、作者の情報が十分に判明しているわけでもなく長い享受過程で背鰭尾鰭がついたり、都合のよいように捏造されたケースも少なくない。たぶん中高の学習の中で「基礎知識」として「国語便覧」などの作者情報(これ自体が研究上の想定・仮説により書かれたものだが)を覚え込ませ試験で出題するという流れが、今も健在なのだと思うことがしばしばだ。試験の採点が簡単で「暗記することが学習」とする旧態依然の学習観から現場の教員が抜け出せていない。「清少納言」や「吉田兼好」を引き合いに出したのは、「随筆を書いた」ゆえに自分の思うことを「筆に随い」書いたのだから人物像を取り沙汰して語ることが多いからだ。だがその「人物像」こそが、『枕草子』や『徒然草』なる形で文字情報として遺された幾多もの写本を校訂して成された「本文」から読み取れた内容の集積なのである。となると「人物像」を根拠に考えることの大きな論理の顛倒が明らかなことがわかる。もういい加減、「学習は暗記」という殻からまず「教員」が抜け出すことが肝要であろう。

『方丈記』と『徒然草』の比較読み
双方の「無常」の主張への違いはどのようなことか?
「文学史」こそが「文学教材」への向き合い方への歪みを矯正する道なのだろう。


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いま文学にできることーなぜ文学を学び教えるのか?

2022-06-24
ゼミで3班に分かれての共話
国語教員を目指す学生が基礎基本として据えておきたいこと
「文学」を読まないことは人生の損

ゼミ活動で標記のような共話・対話活動を実施した。「国語」で「文学」を学ぶことは当然というわけではなく、その意義が世間で問われつつある。論理的で実用的な言語生活ができる能力を育てよという方向性が強調され、「文学鑑賞」に偏っていた「国語」の授業内容に疑義が生じてきた長い経緯がある。もとより「国語」という「一つの器」には、あれやこれやと要素を盛り込み過ぎている。「文字・発音・語彙・文法」などの言語知識や技術から、「説明的・論理的文章の読み方」「話す聞くの理解・表現」「文章の書き方」、などに加えて「文学的文章の読み方」さらには「文芸創作」まで、実に多様な要素を「一つの器」にてんこ盛りにしている。それゆえに、小学校の教員などは、その多様さを整理できずに混濁とした意識で授業に取り組まねばならない場合も少なくない。小学校で算数と並び一番授業時間数が多い基礎科目として、せめて「なぜ文学を学び教えるのか?」という命題に一定の考えを持った教員を養成する必要があるだろう。答えはそう簡単ではない、まさに答えは「風の中にある」のかもしれない。それは母国語を基盤とした教科としての難しさという点もあるだろう。だが「混濁」するからといって「文学」を斬り捨てよというのは、あまりにも乱暴な発想ではないか。

①文学を読む体験を通して、物事への対応力・対話力を養い、自分に向き合い情緒を豊かにすることができる。デジタル時代に映像化や「要約チャンネル」などがWeb上には溢れているが、それを観て「文学を読んだ」気になるのは違うのではないか。「文学」の「読み」は個々に多様性のあるものと捉えておくべきだろう。
②「文学」とは「文を通して人生を学ぶ」ものである。喩えるなら「焼酎とアタリメ」みたいなもので、味わうたびにその味は変化するものだ。身近な内容で「心を動かされるもの」であり、「共感」する気持ちを養うという大きな目的がある。
③「文学」とは「人間が歩んできた経験」そのもの、言葉にできないもの、形のないもの、目に見えないものを定義していく。「文字表現」のみならず、古典芸能の落語なども含めた口誦文芸を含めて広く「文学」と捉え直し、学びとして教育に活かしていくべきである。
以上①②③は、3班のゼミ生たちが共話・対話した内容の概略である。肝心なのはこうした内容を共有すること。そして自らが受け身の「理解」のみならず、「表現」に多様に取り組むことである。

この世界情勢の中で「文学にできること」
ゼミでは来月7月7日「七夕創発朗読会」を公開で開催。
広く「文学」に共感と驚愕を抱いてくれる学生たちに集まって欲しい。


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ああ同級生ーいま何をしておこうか

2022-06-23
66歳同級生『時代遅れのRock’n Roll Band』
はて自らの同級生たちはいま?
そしてゼミ生たちの同窓会を縦につなごう!

一昨日NHK「クローズアップ現代」に桑田佳祐さんが特集された。「いま音楽ができること」と題して今回の楽曲制作についてのインタビュー構成であった。その内容については引き続き諸々と書きたいことがある。まずは今回の楽曲に集ったメンバーが、桑田さんの「66歳同級生」であることも大変にインパクトが大きかった。思わず「自分だったらどんな同級生仲間を集められるだろう?」などと考えた。所属大学学部・短歌関係・研究学会・野球関係・音楽関係等々、様々な「同級生」を脳裏に描いてみる。いずれも以前から「同級生」というのは意識しているもので、若い当時から「同級生がこんな活躍をしている!」などと刺激を受けるものだ。特にプロ野球のキャンプ地として著名な宮崎では、「同級生」をキーワードにある著名な「同級生元投手」と友人になることができた。彼と最初に出逢った時も「僕は同級生なんです」という点が大きな接点になって交流が進展した。彼が大記録を成した時、僕はどうしていたか?現役時代が一定の年齢までで制限されるプロ野球と研究の世界は大きく違うが、何より異業種の「同級生」との交流は刺激が大きい。

小学校の同級会は、確か中学校時代に1度2度開かれた程度。中高は一貫校であったが、中学校の本当に懇意な仲間と担任の先生を呼んで集まったぐらい。高校に至っては幹事役と指名された人物が口先三寸で、まったく開催の気配のないまま長年が過ぎた。大学はサークル関係の記念行事ごとに定点観測のように繋がれる人たちがいる。また最近はSNSなどでグループ化して交流している他大学連盟の仲間にも入らせてもらった。いずれも誰かが声かけすることが必要で、それを契機に集まれる機会も設定される。先行きに何が起こるかわからない世の中ゆえに、こうした「同級生」のつながりを再考して大切にすることも必要だと今回を契機に考えている。昨日は急にゼミの卒業生が、研究室を訪ねてくれた。ゼミの同期や縦のつながりをそろそろ取りまとめて年に1・2回でも集まれる宴を持ちたいということになった。現所属校に赴任して10年目、一定の人数の卒業生らが教員として現場で頑張っている。まずはSNSにてゼミ卒業生全員のグループ化を実行しようということになり、「ゼミ10周年会」の開催へ向けて口火が切られたといってよいだろう。

諸々と「長」であった人はその先の職場でも忙しい
様々な世界で生きる「同級生」から大きな刺激を
ゼミ生たちのためにも「総合ゼミ会」を創設しておくべきだろう。



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題詠「声」ー宮崎大学短歌会6月歌会その2

2022-06-22
声こそ命
実際の声でなくとも心に自然の中に
人間の喉の構造とか総合表現として

宮崎大学短歌会6月2回目の歌会。4月から対面歌会を再開し、附属図書館にて隔週火曜日と定例化にもなってきた。出詠12首、出席10名、オンライン参加2名、とハイブリッド方式も定着した。さらに投票には卒業生も参加し、短歌へのつながりを保つ機会を提供している。18時より準備を始め、ほぼ18時半から歌会を開始。図書館の閉館の21時まで、片付けの時間を考慮し20時50分ぐらいまでは様々な歌評が展開する豊かな時間だ。歌の提出にも今回からWebフォームが作成され、詠草係の負担も軽減された印象だ。また図書館で使用する部屋には、オンラインに接続できる教室の光景がリモート撮影されるカメラが常設され大変に有効に利用している。だがその接続にまだ慣れず、準備や設定に時間を要することを今後は解消してゆければと思う。ともかくPCやスマホなどの機器の扱いにおいては、学生に学ぶことが少なくない。こうした機会があれば、むしろ学生たちが行う操作を見習う姿勢が必要だと思う。

さて詠草の歌では、様々な「声」が表現された。「CD」「お別れ」「しゃがれ」「低音」「風雨」「囁き」「トーン」「長電話」「記憶」「電車音」「灯」「変声」などが素材となった。(なるべく作品そのものの表現が特定されないように記した)「声」といのは誠に不思議なものだということをあらためて考えさせられた。「声」にも外に表現されるものと、心内で響くものがある。音読と黙読に差があるように、実際「声」を発しなくとも「声」は存在する。このような意味で「声」こそが「意識」であり「命」ともいえるだろう。また発すればその場で消えていく「声」というものは、記憶の中でも消えてゆきやすいという性質があるのを発見した。録音が残っていない「牧水の声」を僕が聞きたいと思い続けているように、消えてしまった声の価値は高い。それでも最近は簡単にスマホなどで動画が撮影できる。写真のみならず動画によって、声も保存する機会が増えた世の中になった。それこそは「短歌」そのものが「声」であると考えたい僕の主張を、あらためて深く考える契機となった。

高齢者などは声を発しないと
喉が細くなり栄養が摂れなくなるとも
「声」ありて高度の「言語」を獲得した「ヒト」の動物性なども考えた。


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「自分で守れ ばかものよ」心に落ちる群読

2022-06-21
「苛立つのを
 近親のせいにするな
 なにもかも下手だったのはわたくし」(茨木のり子『自分の感受性ぐらい』より)

担当科目はほとんどが「日本文学」関係であるが、唯一「国語科教育法基礎」という科目をオムニバス(複数人担当)で15回の半分を担当している。2年生前期という段階でもあり、教育学部に進学して1年間が経過した時点での学生たちが、「教室で自らが授業をする」という喜びへ向き合う最初の機会であると認識している。基本的に学部は「教員養成」を旨としており、将来教員となる志があることを、すべての受験生に面接も課して確かめている。かつて高校教員もしていた僕であるが、進路指導の要諦はやはり「将来への志」である。「偏差値で入れる大学」というような安易な進路指導は行わなかった自負がある。向き合う高校生の一生の幸せを見据えて、豊かな将来へ導くのは「やりたい職業」を目指す志こそが何より大切である。大学に入学してくる学生たちをその後4年間にわたり、その志望を萎えさせないことも大切だ。往往にして実習などで現場の現実を知り、夢が萎んでしまうことを避けねばならない。向き合う子どもたちとの交流で得られる教師冥利の真似事のような体験、さて「国語科教育法基礎」ではどんな仕掛けをこの時期に提供しようか。

大学公募で採用される契機ともなった著書『声で思考する国語教育ー〈教室〉の音読・朗読実践構想』(2012・ひつじ書房)を出版してもう10年となった。僕が中高教員時代に実践していた「音読・朗読」を活用した授業方法が基礎からジャンルごとに掲載されている。まさにこの著書をテキストとして、演習を試みることこそ「教育法基礎」に求められる内容だ。この日は「第3章 韻文(詩歌)の音読・朗読実践構想」をテキスト掲載の教材を活用し実際に群読などを体験してもらった。山村暮鳥『雲』で教師がなりきる声の出し方を体感し、谷川俊太郎『朝のリレー』では群読を理屈ではなく脚本を自ら声にして体験した。その後、テキストにはない茨木のり子『自分の感受性ぐらい』を題材に、25分間で4人の班で「群読脚本作成」から「リハーサル」「ゲネ」までを行い、講義の最後に6班すべてが発表をした。班ごとに構成する学生らの個性ある工夫が見えて、こちらも大変に楽しませてもらった。そして肝要なのは「自分たちの今」に照らし合わせ、この詩を表現することで自らの「心に落ちてくる」ことだ。「初心消えかかるのを/暮らしのせいにはするな/そもそもがひよわな志にすぎなかった」という聯などには、まさに「教師への初心」を持った自らを照らし合わせて欲しかった。「詩を読む」ということは、単に他者の感性を味わうのではない。自らが詩の声の主になりきり演じることだ。この2年間「声」が「悪者」となっていたが、そろそろ学生たちとともに身体性を取り戻し始めたいものだ。

「駄目なことの一切を
 時代のせいにはするな
 わずかに光る尊厳の放棄」(茨木のり子『自分の感受性ぐらい』より)


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