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あふれ散る反日常の言葉の〈ひびき〉

2022-05-05
「短歌定型を歌人の内なる時間の自然な流出を防ぎ止めようとする、
 たとえばダムのごときものとして把握すべきである。」
(佐佐木幸綱「短歌ひびきの説」『極北の声』所収より)

日本では「3年ぶりに行動制限のない連休」などと浮かれた報道も目立ち、かくいう僕自身も未だ確定的に訪れていないはずの「日常」の「平和」を享受しようと、「反日常」な「連休らしい過ごし方」へ舵を切っている安易な当事者の一人であるようにも思う。一方でウクライナにおける戦禍の中での悲惨な状況の報道にも目を向け、やるせなくもどこか他人事では済まされない恐怖を心のどこかに宿している。現地インタビューの映像は、他国へ避難していた妻と子がウクライナへ帰国すると、自宅集合住宅がミサイルに被弾していて夫は命を失ったという妻の言葉を伝えていた。「これまで積み上げてきた人生をすべて失った。」というその言葉には、罪のない市民が犠牲になる戦争の理不尽とともに、「命とは日常を積み上げることだ」と強烈に僕らに悟らせる言葉でもあった。たとえばいまこうして小欄を書いている僕の書斎にミサイルが打ち込まれる、または小欄をお読みいただいているあなたの部屋にミサイルが被弾する、そんな考えたくもない理不尽な現実がウクライナでは「日常」となってしまっている。未だブログに投稿していないこの原稿は失われるが、これまで積み上げてきたブログの「ことば」は世界に遺る。そしてまた僕の著書や論文や評論なども、デジタルか紙かの区別はともかくこの世に遺る。こんな想定から「日常を積み上げるとは書き遺すこと」だとあらためて「ことばの力」を僕たちは信じて生きようと確信するのだ。

冒頭に記した佐佐木幸綱の「短歌ひびきの説」をあらためて読んで、その都度ながらまた強烈な衝動のような心の変革を覚えた。時に「なぜ短歌を詠むのか?」という疑問に向き合うと、「日常を積み上げることだ」と確信を持って答えることができるようになる。特に「積み上げ」ということが重要で、日々に積み上げた礎石を崩さないようにするために「今日も短歌を詠む」のである。「1日でも短歌を詠まないと下手になる」という幸綱の言葉も運動などにも通ずるような感覚だが、まさに「短歌がことばの積み上げ」であることを考えさせられる。短歌に限らず、小欄でも毎朝にこのような「ことば」を積み上げることで、記録性・回帰性・自己承認・未来への道しるべといった効用と同時に、ことばを紡ぎ出す積み上げとしての力を僕に与えてくれている。昨年の9年ぶりの単著執筆においては、あらためて自己の書く力を自覚することができた。いついかなる日常でも、限られた時間内で一定の公開可能な文章を綴ることができる。今まで短歌創作に向き合ってきて、まずはこの次元まで短歌も日常にすべきだと考えてきた。昨日はあらためて幸綱の力動的なことばに触れて、そのような日常を送るべきとの確信を得た。1日辞めたら「今まで積み上げてきたものをすべて崩す。」という緊張感こそ、僕らが「ペンで世界を変える」ことができるという意志の体現なのだ。

「短歌の韻律はそのダムに激突してあふれ散る反日常の言葉の〈ひびき〉である。反日常へ行くことで言葉本来の実質をかろうじてめざす歌の言葉は、独詠ではない呼びかけの志によって日常への回帰を果たそうとするのである。」(冒頭の続き。佐佐木幸綱「短歌ひびきの説」より)


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