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リーダーは導くボスは強いる

2022-04-04
「導く」と「強いる」は何が違うのか?
「強いる」ようには見えなくても自らの利害を護るような言動
「共同」「共生」「共創」などが理念としては語られる世の中で

あるTV番組で、現ロシア大統領に対して標題のような格言を引いてコメントする人がいた。正確に調べたわけではないが、言葉の原義からしてそのような意味として意識すべきなのだろう。同番組のスポーツコーナーでは、「Big Boss」を登録名としたプロ野球の監督に対して「何をしたいのかを選手が解っているのか?」と云う批判が、監督経験のあるベテラン解説者2名から辛口に批評がなされていた。未だ開幕して3カードぐらいであり、何かを変えようとすれば批判が伴うのも必然だ。果たして「ボス」という言い方が日本社会でどのように受け取られていくか、かの監督の今後にも期待したい。考えるに「導く」と「強いる」の間の均衡ある適正な匙加減を、昨今の社会が失っているようにも見える。「導く」というのは集団を構成する人々が、何でも自由にやれる環境を作ることではない筈だ。主体的に個々がやる気になるような環境づくりが、「導く」の基礎基本であろう。また「導く」ように見せかけて、暗黙のうちの様々な言動で抑圧するのを意識してか無意識か、底意地の悪い「強い方」を平気でしている者なども気になる。

「強いる」ことが回避される社会になったからこそ、むしろ「強いられる」ことを求める風潮が顕著になっているのも否めない。様々な疑惑にフェイク、議会への民衆の乱入まで先導した前米国大統領に再び待望論が巻き起こってもいると云う。強引に個の我儘を通す姿を意図的に見せることで、支持する側も個の我儘が通せると勘違いをする図式のようにも映る。自由と民主主義により成されてきた国でもそうなのだから、世界で「強いる」タイプを領主に据える動きが止まらない社会構造が大変に問題であるような気がする。我々も他人事ではなく、この20年あまり同様なタイプの人物への待望論が渦巻いている社会であることを忘れるべきではない。例えば、TV電波を利用して声高に現状を批判することで有権者に「頼れそうだ」と思わせつつ、実際に実行したことは社会の基盤を崩しかねない危険な改革でしかないような輩である。こう考えると「横並び主義」で個々の意見を持ち得ないようなこの国の民意というのも大変に危ういことになる。歴史の事例を見ても、「強いられた」戦略などは失敗するか長続きはしない。個々を活かすために、いかに導くか。こんな時代だからこそ、リーダーを見極める眼が求められている。

石原裕次郎演じる「ボス」はいつも「責任は俺が取る」と言った
部下の刑事たちの個性が光る主体性が活かされていた
スポーツなども含めて真のリーダーのあり方を僕らは注意深く見極める必要がある。


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