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みやざき国際ストリート音楽祭2022

2022-04-30
いくつかの街中拠点で音楽の響き
未だ感染者数は高止まりながら屋外会場の利点を
人々の心を豊かに癒す音楽の素晴らしさ

連休初日、朝から激しい雨音を寝床で聞き二度寝。今月は新年度の始まりとともに諸々の書類に追われやや厳しい1ヶ月であったゆえ、少しは身体を休めようと思う連休である。短歌や評論の〆切であれば、どこか心の中でその圧迫を楽しめるものだが、どうも仕事上の書類は追われる気分が否めない。そんな意味で実にありがたいタイミングで連休に突入したとも言えよう。午前中はゆっくりしながら、連休中の計画も考える。妻の誕生日も近いので、宮崎国際音楽祭の「スペシャルプログラム」のチケットを入手。生憎、誕生日当日は仕事と言うので前夜祭という意味で、映画音楽をオーケストラが演奏し「May.Jさん」が歌うというプログラムの席を予約できた。連休中はこれを楽しみに過ごせるのも良いタイミングだ。昼前後から実家に行っていた妻から連絡があり、この日の「みやざきストリート音楽祭」に行ってみようかと言う。幸い昼頃から雨も上がり薄日が差してきた。

コロナ以前は宮崎市中心街の橘通りを車両通行止めにして開催されていた「ストリート音楽祭」、この2年間は自粛傾向もあって僕自身がなかなか街中へ出向くこともなかった。3年ぶりに行ってみると県庁前以外の道路は車両が通ったままであるが、各ポイントで様々な演奏が為されていた。軽快なジャズの響き、小さなユニットの澄んだ歌声、やはりライブで音楽を聴くのは魂が燃えてくるものだ。この2年の間、オンライン演奏などの試みも実施されいくつかのものを観たことがあるが、やはり音楽はライブでないと魂まで響かないことが実感できた。次第に夕刻になり最後のプログラムには、以前に日向市の店で友人になった「小田加奈子さん」が出演するというのでニシタチ一番街のステージへ。保育園の頃から歌手になると言っていたという歌声が響き渡り、宮崎に取材したオリジナル曲が演歌のこぶしよろしく街に響き渡った。終演後にご挨拶を交わしたが、こうした人と人との繋がりの深さが宮崎の密度の濃さである。かくして音楽に浸り豊かな連休が始まった。

「お勉強」よりも大切な芸術文化体験
県内の多くの子どもたちにも体感してもらいたいものである。
この連休は芸術・文化体験を大切にしてみようかと思っている。


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焼き鳥屋という幸福

2022-04-29
串に刺さったうま味
幼少の頃から実家の近くにあった焼き鳥屋
父母と食をともにする幸福

この2年間ほど、すっかり「おうちごはん」が主となり「外食」という機会が減った。それはそれで安心できる食材を選びメニュー内容にも考慮し味付けも控えめで、健康的な食事をすることができている。俵万智さんが今月の宮崎日日新聞連載「海のあお通信」に書いていたが、息子さんが大学進学で東京でのひとり暮らしをする準備に同行し、東京で食材を買ってみるとあらためて宮崎の野菜の質の高さを再認識したという趣旨の内容であった。これにはまったく同感で、東京で買う食材は高いだけでまったく新鮮味がない。場合によると半額程度で、鮮度は5倍も高い野菜を宮崎では普通のスーパーで手に入れることができる。これは肉も同様で「4割引」ぐらいは当たり前、その元値も東京よりはかなり安いので牛豚鶏どれをとってもやはり畜産王国宮崎を実感する値段と質感である。この食生活ひとつを考えてみても、なかなか東京で恒常的な生活をすることは既に不可能とさえ思えてくる。餃子消費量日本一を含めて、僕が宮崎を愛する理由の一つは、この食の豊かさであるのは間違いない。

連休前夜、ゼミは最終コマ。特に4年生が連休明けに「卒論題目」を教務まで提出しなければならないというので、時間枠を延長してでも全員参加型の議論を展開した。3年生も的確な意見を述べる者ばかりで、こうしてお互いが学び合う姿勢は大変に貴重だと考えている。17時開始で19時過ぎまで、概ね4年生の卒論研究とその題目の目処がついた。本来なら義母が誕生日だというので妻とともに義実家に行きたいところであったが、行く時間が遅くなるということで家に留まることにした。そこでコロナもあって外食を控えていた父母を誘い、近所の焼き鳥屋に出向いた。さすがに連休前で席が埋まっている様子、しばらく店外で待って他の客とは隔てられた望むべき席に案内された。居住する学園街はこうした店が貴重で、コロナ渦中は客が少なく無くなってしまったらどうしようとも考えたこともあった。焼き鳥屋といえば、幼少の頃から実家の近くに個人経営の美味い店があって、大人になるまでよく親戚や知人なども伴って利用していた。締めの醤油味鶏炒飯が絶品で、今でも食べたいぐらいの味だった。こうして父母と食事ができることが何にも代え難く幸福であり、そんな僕自身の人生史を振り返る思いにさせられた。思いの外、父も母も食欲旺盛で、焼き鳥類も餃子も目光も釜飯もすっかり平らげてしまった。思い返せば、僕も幼少の頃に外食に行くのが大きな楽しみだった。ささやかな近所の焼き鳥屋であるが、こんな父母との時間をあらためて大切にすべきと思う貴重な連休前夜であった。

美味いものを食べてこそ健康
いつになっても変わらぬ我が家の方針
いつになく豊かな気持ちで連休が迎えられそうだ。


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休講がなくなったオンデマンドとかハイフレックスとか

2022-04-28
諸事情による休講も「オンデマンド」にすれば休講にあらず
さらに「ハイフレックス=ハイブリッド&フレキシブル」という方法
「休講」を喜んでいた僕らの時代よ遥かに・・・・・

大学教員である親しい先輩が検査入院をするという投稿を見た。気になって投稿欄ではなく個人的にメッセージをお送りし、お見舞いを申し上げた。「老いれば様々に出て来るものよ」とあっけらかんとした反応であったが、諸々と身体には気遣いをせねばならない世代になったのだと自らも省みて自覚する機会でもあった。まずは「検査」ということで、異常なき結果を祈りたいと思っている。ところで、その先輩の投稿の中に「休講および補講措置等の連絡手続きやら、オンデマンドのコンテンツ作成(オンデマンドにすれば休講になりません)」とあってある意味で興味深かった。この2年間、いや現在でも全国の大学では新型コロナ対応で様々な講義方式が採られてきた。主に採用されてきた方法としては、講義時間帯と同時間帯にWeb上の「同時双方向システム(*ネット上の画面に講義をするライブ映像を配信し、受講学生はそれを各自の場所で視聴し講義に出席する方法)によって講義配信するタイプ、これは応用として「オンライン飲み会」とか「オンライン親戚会」など、LINE通話などを簡便に利用してよく行われる方法だ。これと大きく二分する方法が「オンデマンド方式」で、Web上に講義動画や音声とか講義資料など作成したコンテンツを上げておき、受講する学生側は「いつでもどこでも自分の都合と環境の要求に応じて」講義に出席できるというもの。(*大抵は受講したら課題を課すことで出席を認定し、課題〆切までに視聴を終えるという制約があるのが一般的)もちろん講義をする教員側も自分の都合に応じてあらかじめ講義コンテンツを作成しておけばよいわけで、これが「休講にならない」理由である。

さらに都市部の大学では「ハイフレックス」などと呼ばれる方法も採用され、前述したオンライン講義の2方法に従来からの「対面講義」までも組み合わせる方法だ。この2年間でミュージシャンの「オンラインライブ」も盛んになったが、会場に集まった観衆とともにその映像がWeb上に流され、さらに「見逃し配信」が一定期間は観られるという方式である。観衆は場合によると会場でライブを楽しみ、その後の一定期間に録画し映像化された配信を自宅ですぐに見直すことができるという訳である。人気ミュージシャンの場合は事情は違うのだろうが、講義の場合でこのような方式を採用すると、多くの学生は「対面」を選択せず「同時双方向」か「オンデマンド」の方に出席する傾向も全国で報告されている。中にはこうした利便性が高くなった講義方法に対して学生側が悪知恵を働かせ、同じ時間帯の講義を「二重登録」していたという事態の報告も聞いたことがある。(*もちろん発覚後は、それ相応の措置が取られたようだ)概ね「原則対面」という方針が主になった本年度、このような2年間で習得した講義方法を織り交ぜていかに活用するかも問われているような気がする。例えば、悪天候での休講などにおいても従来は「補講」が求められていたが、「オンライン」のいずれかの方法で休講は回避することができる。入院する先輩の大学では、「オンデマンドにすれば休講にならない」という基準が示されており、どうやら先取りして入院中の講義コンテンツを作成しているという訳である。どうやら病院へのPC持ち込みは禁止らしいので、さすがに病室からの「同時双方向」は無いようであるが。だがオンライン学会などなら病室から参加ということも可能になったという現実を僕たちは手に入れている。善かれ悪しかれ?果たして「休講がなくなった」というのは、教員の負担としてどうなのか?などとも思い、いざ自分がそのような事態に向き合ったらどの方法を選択しようかと考えている。

いつでも「オンライン化」が可能である方法を日常から
「同時双方向」と「オンデマンド」の教育効果の違いなど未だ検証されておらず
音楽ライブのように「対面」でどれほどの教育効果があるかという教員の原点を見つめ直しつつ。

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26個の新しい目ー宮崎大学短歌会新歓歌会:題詠「目」

2022-04-27
新歓祭と講義受講者などから13名の新人
やはり対面効果があるのだろうか?
いずれにしても多様で楽しい対面歌会が戻ってきた!

この2年間ほど宮崎大学短歌会への新入会員が少なく、いささかの危機感を抱いていた。歌会のメンバーも固着しオンライン上での「内輪話」感が顕れ、詠草の歌そのものも新鮮味を失って来ていたことが否めない。もちろん、オンラインを駆使して2年間もほとんど月例2回の歌会を継続してきたことは大変に貴重なことと高く評価もしたい。だがやはり「サークル(会)」というのは、文字通り循環し新陳代謝があってこそ細胞が進化するものと思う。今年は大学自治会主催の「新歓祭」が2年ぶりにキャンパスで開催され、その短歌会ブースにいて4、5人の学生が勧誘に乗ってくれたのだと聞く。それに加えて、僕の基礎教育(全学部対象)講義の受講者で文芸創作に興味がありそうな学生が講義後に話しに来たのですかさず「短歌会」の存在を紹介したら、同じ講義を取っている他2名とともに入会に興味を示してくれた。さらには1年生の支援教員になっていることから「大学教育入門セミナー」を担当しているが、その講義でも「楽しみは」で始まる短歌づくりで自己紹介を行うと、やはり高校時代に文芸部だった学生が話しに来るということもあった。詰めとしてはゼミの新入3年生にどんな分野の研究をやろうとも「短歌のよみ」は大切であるという趣旨で、先輩である大学院生が勧誘をしてくれて4名が詠草に歌を連ねてくれた。また市内のあるお店でバイトをしている他大学の学生とうちの学生たちが知り合いとなり、短歌に興味がありそうなので声をかけて参加してくれるようになったという他大学との交流も実現した。この一連の勧誘事情は、やはり対面が復活したからと言えるのであろうか?

新歓歌会の題詠は「目」、タイトルに記したように「26個の新しい目」が歌会に参加してくれた。附属図書館の一室は収容定員ギリギリぐらいになりながら、やむを得ず湿度のある空気を窓全開で取り込みながら、まさに熱気のある雰囲気で歌会が開始された。出詠17首、何より附属図書館での対面開催となると、21時閉館までに図書館を出なければならない。歌会の評をどれだけ効率的かつ奥深くできるかも大きな課題となった。「視力」「魚の目玉」「目尻のシワ」「春眠」「目玉焼き」「目から鱗」などが特徴的な素材だったが、概ね通常の「目」が詠まれて、「科目」「五目」などの漢語的な組み合わせを詠む歌はなかったのも特徴であった。新人の一人から「題から考えを拡げて詠まれる場合と、むしろ広く詠みたいことから題に焦点化していく双方の歌がある」という発言も出てきて、なかなか逞しさも覚える展開となった。対面となってもマスクの上に見える「目」が顔を覚える大きな要素になっている世の中、コロナ禍の特殊事情を歌の素材にすることももはや少なくなってきた。オンライン画面にあらず、新たな「生きた目」に出逢えた貴重な歌会となった。

「画面に友はいても一人」から
「見渡せど見渡せど友の目ん玉」へ
学生たちの新歓祭を始めとする勧誘への情熱を讃えたい。


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「バカじゃない」ことばの力学の退行

2022-04-26
「バカじゃない」の真意は何が言いたいのか?
「いや、そうではないだろう」という反語としての裏の意味
心を形にしたことばゆえに文法では定められない文脈上の意味がある

たとえば恋人から急に告白されたとしよう、思わず「バカじゃない」などということばで反応をしてしまう場面は映画やドラマでよく観る光景だ。通常、僕たちはこの発話をした人物の真意として、「好きな人からの急な告白に驚き、照れ臭いのも隠すために反発的に『バカ』という罵声的な表現を使用しその場を凌いだ」と解釈するだろう。時に「ことばの額面通り」に解釈しふられたと思う人物がドラマに描かれるかもしれないが、視聴者としてはそれこそ「真のバカじゃない」と思う二重構造の演出になるような気もする。いつからであろうか?学校などで「バカじゃない」などということばを教師が児童・生徒に対して言えない環境となった。もちろんコミュニケーションなき品の無い人権侵害のような物言いいは、いつの時代でも慎むべきであるとは思う。だがしかし、かつての昭和の時代であれば「バカやろう!」などと部活顧問が指導する光景はどこにでもあった気がする。僕はソフトボール部の顧問をしていたが、近隣の学校の名物監督で試合中などに「バカやろう!」を連発して指導する先生がいた。それは明らかに部員たちへの愛情表現であったように周囲も嫌な感じはまったくせず、むしろあのように生徒らへ親身に指導したいものだと憧れに思っていた。

中高教員をしてきた経験の中で、部活指導の状況などは明らかに変化してきた。練習中にあまりにやる気が見えないので「帰れ!」と顧問教員が言ったら「本当に帰ってしまった」という笑い話のような真実があった。だが現在の状況では「帰れ!」などと言えば、保護者がクレームをつけるのは必定な世の中になった。古文のようにこの「帰れ!」をことばを補って解釈するならば、「(あなたはそんなやる気のない部員ではないはずだから、そんな姿勢で部活をしているなら)帰れ!」という愛の鞭としての発話と解釈するところである。前述した「バカやろう!」もそうであるが、ことばの背面に「いや!あなたはバカじゃないだろう。やればできるはずだ。」という親身な愛情を読み取るべきである。だがこのような表現が避けられる世の中になって、言語の解釈の幅が大変に狭まってしまったようにも思う。あくまで「ことばは額面通り」にしか理解されなくなってしまった。そんな言語文化上の”退化”が、進行しているようにさえ思う。古来から「疑問」なのか「反語」なのかの解釈が論争になっている和歌がある。それを文脈の上でどう捉えるか?そんな国文学講義を1年生で実践し背後にある「愛情の意味」が解釈できる学生を育てたいとあらためて思った。

「月やあらぬ春やむかしの春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして」(在原業平朝臣)
人の感情は二項対立で結論が出るものにあらず
「バカじゃない」と言える間柄を意図して作らねばならないのはいかがなものだろう?


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休日も初動が大切なのだろう

2022-04-25
金曜日の夜を充実させたら週末が長く
1日に1万歩歩くには朝の3000歩が最後に決め手に
何事も行動するのは「いま」である

なぜかこの週末は長く感じられた。たぶん金曜日の夜を充実させ、土曜日は学会にオンライン参加し、日曜日は課題となっていることを2つも消化できたという内容の充実度がそう思わせたのであろう。何をするわけでもなく朝寝をしていたずらに過ごす週末は、サザエさんの最後の歌を聞く際に虚しさが込み上げてくる。身体を休めつつも心が解放されることを上手く取り込むのが、休日を有効に過ごす術だろう。その中でも肝心なのは「初動」、今回も何より金曜日の夜がこれ以上なく充実していた。例えば、土曜日に半日を寝てしまえば週末は「1.5」となるが、 金曜日の夜を充実させると「2.5」に膨れ上がる。「家に帰るまでが修学旅行」という学校のいい古された訓示の反転として、「週末の入り口は金曜日の宵にあり」と考えるのは素敵だ。さらに言うならば、研究学会という半分は仕事のような時間が土曜日にあったことで、土日の使い方が上手く分担できたのも充実を実感した要因だろう。

雨の週末だったゆえに、空ばかりを気にしていたらきっとサザエさんの最後の歌が空虚に聞こえたであろう。天候ばかりは恨んでもどうにもならない、ならば「晴耕雨読」ではないが学会や歌作に励むのがよろしい。美味しいものを食べて、良い本を読み、良い音楽を聴いて、良い映像を観る。外は雨ながら、晴れ渡るような気持ちにしてくれる芸術がそこにある。「晴耕(晴れたら屋外で農耕に勤しむ)」の部分が「仕事」であるならば、「雨読(雨が降れば屋内で読書する)」の部分が「趣味」ということにもなるだろう。「趣味」といっても「仕事」や「生き方」に無縁ではなく、その充実度が「生き方」や「人間性」に大きく反映するはずである。新聞や本を読まず音楽を聴かず、ドラマや映画も観なければ、やはり生きている上で向き合う人の気持ちはわからない。研究一辺倒な生き方が空虚だと思うのは、まさにこの部分ではないかと思う。どの分野でもあれ、「研究をしてどうして人の気持ちがわからないのか?」と思うことも少なくない。さて、いずれにしても初動である、来るべき連休は飛び石だが28日あたりの過ごし方が要諦になりそうだ。

休日を楽しめるプログラムを
「仕事」がなくなってもやることが一杯な人生を
1日でいえば「この朝」を大切にしたいものである。


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ハイブリッド学会の新しい参加方式

2022-04-24
京都に対面会場を設置しオンライン参加も可能
休憩時間には発表者や関係の方々でブレイクアウトルームを
そして自宅書斎からは複数の「学会梯子」も

西部例会委員を務める和漢比較文学会の例会が、ハイブリッド方式で開催された。会に先立って行われた理事会ももちろん「ハイブリッド」、用語に馴染みのない方のために注釈をしておくと、対面会場を設けつつその会場の映像を配信しながらオンライン上でも参加できる方式のことを指す。僕のような地方在住者にとっては今回も京都まで出向かなくとも自宅書斎で参加することができるもので、コロナ禍による怪我の功名ともいえる方式である。例会委員を務めているため、この方式に到るまでにメール会議を幾度も積み重ねてきた経緯もある。まずは会場予約から機材設置までの煩雑な仕事をこなしていただいた京都の先生方には深く御礼を申し上げたい。予想外に対面会場での参加者が少ない状況が報告されたが、学生たちの講義同様に選択できるとなると自宅でのオンラインを採る方が少なくないということか。僕は委員としての責務もあり、オンライン参加ながら通信や音声に支障がないか、画面共有資料は問題ないか、という点をホストPCがある京都会場へチャット書き込み機能を使用して伝えるという役目を担っていた。

理事会・例会いずれも順調に会は進行した。2本目のご発表は和歌関係であったので、質問もさせていただいたが、こうした機会に臨むことで自らの研究への意欲がまた高まるものである。今回のハイブリッド開催で工夫されたのは、休憩時間に「ブレイクアウトルーム」を設置したことだ。再び用語の注釈をするならば、オンラインで話せる画面を分割して個室を設定しそこに入ってきた人だけによる会話ができる機能のことである。講義でも学生たちを分割して班別で対話活動をする方式として僕もよく利用していた。前半2本の研究発表の後に発表者・司会者ごとにこのブレイクアウトルームが設けられたので、質問をした方の部屋に入室した。すると発表者の指導教授も入室しており、質問したことに御礼を仰っていただいた。対面のみだった頃の学会ではこの休憩時間に質問の先を語り合うことが大切だと思っていたが、この意味で今回の試みは長けたものであった。休憩時間以降に3本目のご発表、僕個人としては早稲田大学国語教育学会で「和歌創作」に関する実践発表があるのが気になり、2台目としてノートPCを研究室から持つ帰っていたのでそちらも起動してもう一つのオンラインにも参加した。オンラインであれば、このように「学会の梯子」もできるものかと、我ながらその利点を存分に享受した気持ちになった。もちろん2台目の参加においても質問をさせてもらい、若手の院卒現職教員の先生方との交流ができたことに喜びを覚えた。

今後は学会の全面対面がどのようになって行くものか?
ハイブリッドによって出張費も時間利用も効率的に
されどやはり懇親会のない学会はあくまで物足りないと思う向きも多いであろう。


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余白あっての社会でありたい

2022-04-23
講義後の学生との雑談
同僚との仕事外の語らい
核心をより美しくする余白の役割

新学期の全面対面講義が開始されて、2週間が経過した。引き続き、手指消毒・座席の間隔・換気などを講義する教室では心掛けて行うようにしている。晴れれば爽やかな新緑から流れ来る風に、心地よく講義を進めることができる。1年生の担当科目が多いせいか教室は講義開始前から静かで、学生たちもマスクをしつつ「喋る」ことでの飛沫対策を心得ているということなのか?昨年までのオンライン講義と違うのは、講義に「余白」ができたことだ。早めに教室に行ってプロジェクターにタブレットを繋ぎ準備を終えてもまだ開始のチャイムが鳴らなければ、しばらくは微妙な時間が教室に流れる。1年生ゆえにまだ開始時刻に遅れる学生も少なく、いっそ早めに講義を開始するような流れで、雑談のマクラから話し出す感触を思い出しつつある。そういえば、なぜか?オンラインでは冒頭の「マクラ」や雑談などを話すことが減少していたことに気づく。同様に講義終了後もオンラインなら瞬時に学生はPC画面から退出し消えていくが、教室なら質問に来たりする流れで学生と雑談をする機会も増える。人間社会で肝心なのは、実はこの「余白」のような時間なのではないかと最近思っている。

同僚との会話もそうだ。仕事の話ばかりしていては、やはり仕事そのものも円滑に運ぶとはいえない。僕らはどうしても研究室で個々に籠るので、同僚と意義ある時間を持つのも機会は限られる。ましてや時代とともに忘年会・新年会や歓送迎会などの職場の交流の場そのものが、過去のものとして葬られて来た社会の風潮がある。そこにもってきてコロナに急襲された社会は、さらに個々のつながりで宴席の場を持つ機会さえも排除してしまった。まさに余白なき空洞化した芯のみがカラカラと乾いた音を立てて、油も注されずに空転しているような職場が多くなってしまったのではないだろうか。僕自身の信念として「社会性がある教員(人間)」というのは、ライフワーク的なテーマであり、それを担保してくれるのが酒宴の語らいであるのは言うまでもない。まさに先ほどの「空転」の比喩の潤滑油となるのは、「酒なしにして何の楽しみ」という訳だ。コロナによる個別隔離的な社会習慣が、個々の人々の社会性までも剥奪してしまう。場合によると社会性がなくとも「どこが問題なのか?」と言わんばかりに意識の極端な低下を招いているともいえる。そんな意味で、僕たちは今一度個々人の潤滑なつながりを意識して生きるべきだと思う今日この頃である。

人と人とが語らいあってこそ文学あり
教育もまた人と人とがつながることに他ならず
「0コロナ」があり得ないとしたら、僕らはもうそろそろ慎重ながら動きだしいいはずだ。


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源頼朝に抱く有能者を消すイメージ

2022-04-22
「源氏」三代将軍までしか続かなかった
「徳川」は御三家を有し十五代まで
頼朝の身内の有能者を恐れる傾向が大河ドラマでも

僕が持っている落語の持ちネタに「紀州」がある。マクラの後に冒頭に記したように、「お武家さんの世の中では『徳川家康』は頭のいい人で、家系の将軍が絶えないように御三家を作っていたものです。それに比べて鎌倉幕府の源頼朝は、身内のできるやつを警戒し恐れてみんな殺してしまうもんで、源氏は三代将軍までで絶えてしまった。」などという口上で始める、「徳川御三家のお世継ぎの物語」である。今年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、北条義時(役:小栗旬)を中心に「鎌倉殿(頼朝)」の周辺の人物相関模様を、三谷幸喜脚本が実に現代的な演出で巧妙に描いていて面白い。あまりに時代考証より現代的でコミカルな演出も多く、往年の大河ファンは嫌悪しているとの話も聞くが、史実を元にした虚構として観るべき真実は描かれていると思う。前回の放映は所用で録画で観たのだが、関東での地位・権力を束ねようとする頼朝(役:大泉洋)が有力者で最大の貢献者であるとも言える「上総広常(役:佐藤浩市)を多くの武者を集めた前で「謀反者」として成敗してしまうという場面で、耐え難い感情を視聴者に抱かせた。この大河そのものが「北條」の視点で描かれており、鎌倉幕府の源氏としての将軍は三代で絶えるが、執権・北条政子らに政権が引き継がれる伏線としてよく理解できそうである。

梶原景時(役:中村獅童)による上総広常の斬り方が事前に短刀をスリのように剥奪し凄惨なイメージで背中から斬ったという演出も相まって、その暗殺を首謀した「頼朝」の冷酷な性格が見え隠れした。もっともドラマとしては「頼朝」を大泉洋さんが演じていることで、そのややとぼけたイメージが冷徹さに胡椒をかけて臭みを消しているようにも映る。僕らの時代から教科書に載っていた「頼朝肖像画」はどうやら本人ではないという説が最近は有力になった。源氏将軍で言えば、「三代実朝」が歌人としても有名であるのも特徴である。それにしてもこの「頼朝」のリーダーとしての性状の傾向は、現代社会にも通づる教訓であるようにも思われる。中高教員時代に教科主任の役職であったため、新人採用に携わったことがある。その際に大切にしたていたのは、「自分を超える可能性がある人を採用したい」と思っていたことだ。もちろん他の教科でも採用人事が進むことがあったが、「自分の配下に据えて言うことを聞く」タイプを採用したのではと憶測されるケースも少なくなかった。組織全体が活性化するには、明らかに採用する側を凌駕するタイプを取り込み、自らの発展に刺激を受けることが得策だろう。それは徳川幕府でいうならば、8代吉宗(時代劇では『暴れん坊将軍』である)が初めて御三家紀州から将軍に就いたことで活性化したのを見れば明らかだ。だが組織の多くはむしろ頼朝型で、自らの既得権を守ることが念頭にあるからか、むしろ服従し自らを乗り越えることのない人物を採用することが少なくない。以前からこのような傾向を現実社会に察知していたのだが、今回の上総広常の惨殺は象徴的に頼朝のイメージを焼き付けたような気がしている。

仕事をしない人が得をする世の中では
研究は公平公正に評価されるものと思っている
自らを刺激するライバルがあってこそ仕事は活性化するものだ。


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チームに入りたいと思っていたこと

2022-04-21
「科学特捜隊」とか「ウルトラ警備隊」とか
英雄物のチームの一員になりたいと思っていた幼心
人と人とが手を取り合って目的を達成する喜び

幼少の頃、ウルトラマンとかウルトラセブンをTVで観ることにかなり入れ込んでいた。それぞれの最終回には、英雄が地球を去ってゆく姿にかなり涙をした記憶がある。「ゼットン」という最強の異星人にやられてしまうウルトラマンを、兄の「ゾフィー」が救出に来て故郷のM78星雲まで連れて帰る。またウルトラセブンでは地球人に扮していた「モロボシダン」が、同じ「ウルトラ警備隊」の「アンヌ」との愛を捨て故郷の星へ還るという恋の物語まで仕組まれていたことに激しい情動を覚えたものだ。今でもそうだが、僕がドラマや映画を見ると必ず「作中の誰か」に同化して観ている習性がある。ウルトラシリーズで言えば、変身する英雄に成り代る場合が多いのだが、それ以上にその英雄が所属する「科特隊(初代ウルトラマン)」「ウルトラ警備隊(ウルトラセブン)」の隊員になりたいとう衝動を抑えきれなかったと記憶する。「地球の平和を護る」という目的のために人と人とが結束しているようで、それぞれの「チーム」はあくまで「平和」を願う集団であったことも印象深い。前述したように「ウルトラセブン」では、人間的なドラマまで演出されており、「果たして怪獣を攻撃し倒すだけでこの星の平和は訪れるのか?」といった人類が考えねばならない課題を子どもたちに考えさせていた名作であると思う。

当時一番欲しかったのは、「科特隊」では左胸につけて通信できる「流星マーク」、「ウルトラ警備隊」では隊員同士がテレビ通話ができる大型の「ウォッチ」である。ともに玩具で発売されていて(もちろん通信はできないのだが)、買ってもらって身につけていた記憶もある。今やスマートウォッチでは、他者と携帯回線で会話ができ、様々な情報を取得することもできる。講義でワイヤレスピンマイクをつければ、ほとんど「流星バッジ」をつけているような気分になるのは僕だけであろうか。チームの象徴として、また「仲間といつでもどこでも通信できる」という点が、幼少の僕にとって大きな魅せられる要素であった。小学校中学年ぐらいまでは引っ込み思案であったが、高学年頃から学級委員などをやりたいという思いが強くなった。そして中学野球部では、親友とともにチームをまとめることばかり考えている日々であった。高校は「個人種目」である器械体操も経験したが、それにも周知のように「団体戦」があって、その方がより一層に個人のミスが許されないという緊張感があった。大学になると一気に開花したように、サークルや他大学との学生連盟に学生研究班などの「幹事長」「実行委員長」「代表」を次から次へと務めた。複数の「長」を併任できるのかと心配されたほどであった。そう!幼少の頃にチームに憧れていた気持ちの体現であったのだろう。中高教員になってからもそれは同じ、甲子園の応援など組織的に学校で動くことは大好きだった。さて、研究者になってからはどうだろうか?あくまで個人業績が肝要な世界だと、「個の鎧」を纏ってきたようなところはある。だが役割上、ここのところ「チーム」での化学反応的な展開が大変に面白くなって来ている今日この頃である。

やりたいこと・ふかいことを おもしろく
遥か50年も前にウルトラセブンがテーマとした「地球の平和」を
「今ここ宮崎」の「地域」からチームで築こうではないか。


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