夫婦とは何か?ー「家」と核家族と新時代
2022-03-31
「家は制度として昭和二十二年(一九四七)の民法改正により廃止されたが、現実にはその後もある程度存続した。そして同三十三年ごろに始まった日本経済の高度成長に伴い、新民法が示す内容に近づき、核家族が一般化した。」(『国史大事典』「家」の項目より)3月30日は両親の結婚記念日で、この日で60年を迎えることになった。この歩みなくして「僕自身」の存在はなく、色々な意味で感謝の意を告げたい日である。俗に「ダイヤモンド婚」などと言うらしいが、どうせ宝石商が名付けた商業主義ゆえに拘る必要もないと思いつつ、ささやかでも僕ら夫婦と話せる時間が持てたらよいと思い近所の焼肉店で祝宴を持った。母も前日までに「特に祝うことはない」と言っていたが、やはりこの日しかない一つの区切りとして大切にしたいという息子としての気持ちに急かされた。特別ではなく日常の馴染みの場所で楽しく語り合う、それが何より幸せだと僕らはあらためて知った。今ここにある日常が理不尽な脅威で破壊される、「平和」とは何でもない日常があることなのだ。また新型コロナ感染拡大も「下げ止まり再拡大」傾向であるが、これからは対策を取りつつも前へ進むべきではないかと思う。これもまた「今日」という日常が、掛け替えのない1日であると思うゆえである。
ちょうど9年前、僕が宮崎に赴任する直前に東京のホテルで親戚も集まり両親の「金婚式」を祝った。実際は「51年目」であったが、僕が非常勤講師で専任公募採用への挑戦を続けていたという事情もあって1年後の開催となった。あれから9年、一般的に考えるよりは遥かに高齢まで続けていた建築会社の経営も平穏に閉じることができ、宮崎へ移住して2年半。新型コロナを予見するかのようなタイミングでの宮崎移住で、両親の新たな夫婦生活がここに続く。冒頭に記したように「家」は民法上は既に存在しておらず、核家族が一般的な時代を経てさらに新しいパートナーとの関係が重視される時代である。だが『国史大事典』に「現実にはその後もある程度は存続した」とあるように因習の次元で「家」は我々をどこかで拘束しているようにも思う。「拘束」という負に思える面ばかりではなく、「親戚」の生きる姿に相互に励まされることも少なくない。母方の親戚の結束は以前から大変に強く、母の祖母方の親戚は「いとこ会」を40年近く継続していた。それに習って僕らの「いとこ会」も特に9年前の「金婚式」を契機に開かれるようになった。しかしここ2年間は感染拡大で中止を余儀なくされている。もうそろそろよかろうと、まずは目標として今夏の開催予定を母が立て始めた。年に1回でよい、核家族である僕たちが「家」の制度にも囚われることもなく(女系の親戚)、自由に楽しく語り合う時間が必要である。夫婦とは当事者2人だけでは支えきれないこともある。新時代において、両親の60年間の歩みを噛みしめる宵のうちであった。
私たちが最良に生きるために
何を大切に日々を歩むのか?
伴侶の大切さをあらためて考えている。
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