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自然に生きるとはーなぜそうありたいか?

2022-03-01
「杞憂」:中国古代の「杞」国の住人が、
天が崩れ落ちることを心配し寝食が取れず。
自然の中で生と死は必然の摂理であるが・・・

新型コロナに翻弄されて早2年、東京からの人口流出が顕著であると云う。もとより首都圏人口一極集中は我が国の大きな問題であったはずだが、政治社会的にまったく解決できなかったことがこのウイルスの所業でこのような反転現象になるのは、あまりにも人間の愚かさを皮肉っているようにも見える。それでも「テレワーク」への働き方転換を始め、この傾向が生じるのに2年という月日を要している。僕の場合は仕事上の公募採用による偶然で宮崎に赴任したのだが、その根底にはやはり自然の中で暮らしたいという願望がないわけではなかった。その大きな生活観念の転換点はやはり「東日本大震災」であろう。東京のマンション「12階」に住むんでいること自体の「不自然」、尋常ではない揺れが書斎をほぼ破壊したことへの衝撃は大きかった。同時に当時から様々な考え方があったが、放射能の問題も看過できなかった。様々な書籍や勉強会で放射能については多くを学んだが、自然界にもありながらそれが人為的に肥大化して暴発することで人間が制御できない領域になってしまう恐怖を覚えた。文学に関わる多くの人々の言動が繊細であるゆえに、この問題に敏感であったと振り返ることができる。

宮崎で僕が出逢い直した若山牧水は、43歳の若さで逝去しているが死を恐れることはなかったと云う。自らの心身も自然の一部と悟ったとき、「死」は恐怖ではなくなるという境地だ。ところが理不尽な偶発的で人為的なことで死に直面することには、喩えようもない恐怖が伴うのだろう。いま現在のウクライナ情勢がその状況で、民間人の家屋にもミサイルが突き刺さる恐怖の映像を観た。もちろん自然界を見れば弱肉強食、目の前の鳥が海中の魚を一瞬にして捕獲したり、生態系の摂理の中で人間が見ると残酷と思えることが自然と行われている。だが自然界を「残酷」とは言いながら、残虐さに蓋をした環境を産業として作り出し私たちは平然と肉も魚も清潔に食している。「いただきます」の祈りの意味を、日々噛みしめるべきなのだ。あらゆることが産業化されシステム化された近現代、日本でいえば明治以降の約150年で失われた感性も少なくない。少なくとも「平和」に暮らせる国土が77年間は、個々の人間が努力もせずに此処にある。明治18年生まれの牧水の歌に学ぶことは、近現代の穂先を生きている僕たちにとって必定なものの見方である。中国古代の故事成語は、近現代において真実味を増しているのだろう。人間そのものがこの地球を壊す道だけは歩んではなるまい。

日の出待ち月の出を待ち
地球という自然の中で生かされているこの命
自動車ひとつでも使い方で人間の命への恐怖になることを忘れてはなるまい。


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