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あの日のモスクワ体験から

2022-02-27
1989年12月21日モスクワ市内泊
トランジットホテルでの拘束的な滞在
その後のソビエト連邦崩壊から30年

仕事でいえば高校教員となって初任校3年目の冬休み約2週間を丸ごと費やし、一人の同僚を伴い欧州への自由な旅に出た。弱冠20代半ばの僕は、両親を通して親しい登山家がスイス国境に近いフランス在住であったために彼の家を目指したのだ。欧州往復の航空便はどうしようかと検討する中で、今現在ほどLCC(格安航空会社)があるわけでもない時代、格段に値段が安い旧ソ連の国営航空会社「アエロフロート」を選択した。知人の登山家も「アエロフロートは面白い」などと僕らを煽り、その貴重な体験をさせたいような言動が目立った。色々と調べてみると荷物のX線検査の透過率が高いので、カメラのフィルムなどは特殊な防御袋に入れないとやられるとか、かつてKGBらしき人物に手荷物検査を受けた経験などを聞かされた。成田空港に行くと尾翼やエンジン取り付け位置がやや見慣れない機体が搭乗機、比較的航空機に詳しかった僕はすぐに「ツポレフ製」だとわかった。成田を離陸し北上するのがわかったが、機内アナウンスのロシア語が妙に僕の心に突き刺さるように感じられた。やがて真冬のシベリア上空、凍土の大地が眼下に見えつつ窓際の席は冷たい風が吹き込んで来るようで初めて膝掛けの重要性を悟った。機内食をやや大柄な男女を問わないCAが運んで来る、搭乗時間は約10時間の直行便で当時のソビエト連邦首都モスクワに着陸した。

初めて共産圏の土地を踏む緊張感を伴いつつ、モスクワ空港内に入るとある種異様な光景の連続だった。レストランには食べた後の食器が下げられず卓上に散乱しており、そこらじゅうの床に寝転んで待機する人々が溢れていた。僕の当時の実感は「この国にはサービス業がないのか」というものだった。その間、常に係員に誘導されてトランジットホテルへ向かうバスへ乗り込まされた。しばらくすると機銃を持った兵士がバスに乗り込んできて、僕らのパスポートをチェックし始めた。チェック後には手元に大事に保管したいと思いきや、そのままパスポートは兵士らに収奪された。いくら若い僕らでも、さすがにこの事実を悟った際にはいささかの恐怖を覚えた。それ以前の海外経験が観光地のグァム島ぐらいだったので、赤い表紙のパスポートの厚遇に奢っていた自分を発見した。バスが走り出すと雪に覆われた周辺の土地を黄色い街灯が照らし、モスクワ郊外の土地にはあまり街らしい景色も見えなかった。バスを降ろされると雪道を100mほども歩かされたであろうか、無機質な収容所のイメージしかない建物に入った。机上に適当に鍵が並べられ、あまり説明もなく早い者は鍵を勝手に我が物としている。「これだ!」とばかり知人の登山家から聞いていた「早い者勝ち」が頭によぎり、僕自身も勝手に同僚との二人部屋の鍵を確保した。機内から一緒になった一人の日本人がいたが、やや出遅れてターバンを巻いた見知らぬ人と同室になってしまっていた。航空機内の座席もそうだが、日本の感覚だと指定席を守るのが原則だが、どうやら「早い者勝ち」なところが否めなかった。それがソビエト連邦の常識なのか、それとも欧州全体の常識なのか、判断するのにはその後の旅を待つしかなかった。翌朝、収容所風ホテルの1階に行くと、僕らのパスポートが並べてあった。よもやこれも「早い者勝ち」などとその管理のいいい加減さに驚きつつ、再び赤い表紙の菊の御紋を胸に仕舞い込み空港へのバスに乗り込んだ。

その後、チューリッヒ行の座席はまさに「早い者勝ち」
無事にスイスの空港に着くとその空港の明るさに計り知れない安堵を覚えた
僕の唯一のモスクワ体験記である。


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