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みんな言語が好きだった

2022-02-19
英語イディオムと日本語の比較言語学的視点
大学学部で一番厳しかった科目として
多言語との相対化、特に漢字文化圏言語として

高校3年生の今頃、近所の書店で「大学受験ラジオ講座」のテキストを購入した。中でも「実戦英文法」という講座に魅力を感じ、3月の開講を待った。テキストには高浜虚子の「春風や闘志いだきて丘に立つ」の句が示され、文学の響きに奮いたちながらも英文法としての解析に惹かれ始めた頃だった。当時は「英語の神様」と呼ばれた西尾孝先生のラジオ講義は、実に流暢な喋りでわかりやすい上に、時折「比較言語学」のような話題に触れる学問的な受験講座であった。この影響もあって一時は、「英語学」を専攻しようかと思っていた。その後、西尾孝先生とはYゼミナールの講習で直接に講義を受けることができ、講義後はよく質問に通い親しくお話しできる間柄となった。首尾よく西尾先生の大学の後輩になることができた後も、講習を担当する期間や時間割を調べてゼミナールの講師室を時折訪ねていた。さらに教員になってからは、自宅にお招きいただく機会も得て、長年にわたり僕自身が学問を志す大きな心の支えであった。

昨日は同僚の韓国語の言語学を専門とする先生と、ある歌人の方とそのご子息とでオンライン座談会を設けた。テーマは歌人の「韓国ドラマ」を題材とした発表作品について、あらためて韓国語母語話者も納得する繊細な短歌表現であることが解き明かされ、実に有意義な時間であった。座談の中で、歌人の方も大学学部で当初は言語学を専攻しようとしていたという話を聞いた。初耳であったので意外に思う気持ちと、腑に落ちる気持ちが同居した心境になった。それは僕の中にある言語学としての日本語への思いにも拠るものだろう。大学学部での「国語学」、今で云うところの「日本語学」の先生にはやや異質さを覚え、前述した「英語学」への興味はありながら「日本語」でそこを専攻にしようとは思わなくなってしまった。もちろん同分野で納得いく「音韻アクセント」の講義を展開する先生もおり、講義ではよく当てられて徹底的に厳しい助言を直接に受けた恩恵のある先生もいらした。そんな環境から、「言語学」的ではなくやはり「文学」を学びたいと思い古典和歌を専攻とする先生に師事した。中高教員になってからも「古典文法」や「漢文句形」を教えるのは嫌いでなかったが、多くの同僚が文法に終始するあまり「古典文学」そのものを生徒らが嫌悪している実態を知って、「文法」に偏るべきではないという反発心が心に深く宿った。しかしながら宮崎に来てから短歌創作も本格的に始めて、歌会などで微妙な文法の機微が問われることが多くなった。決して専門ではないながら、この分野の知識が必須であることを悟った。どうやら今回の座談会に参加いただいた歌人の方も、作歌の基盤には「言語学」があるのだろう。しかも短歌表現の上では、それを決して漂わせないところが実に秀逸だ。漢字文化圏の言語として、韓国語を窓口として短歌への見方が大いに変革する有意義な時間であった。

息子さんもまた「言語学」を志す
あらためて比較言語学の同僚の先生から学ぼう
みんな言語が好きだった。


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