演じることへあくがれて行く
2022-02-14
「牧水と恋」リーディング劇公演1週間前「あくがれ」は「あく=今此処」から「がれ=離れ」
「演じる」幼少の頃からの思いを今に
「演じる」という行為について、日本ではあまり良い印象が持たれない傾向がある。世間で「役者じゃのう」と言えば、「人を上手く騙した」という趣旨が加わる揶揄に近いものに捉えられることも少なくない。いつからこの国では、「演技」ということへの誤解が生じたのだろう?舞台演劇などを観た際に「暑苦しい」などと、日常性を見出せない鑑賞者側に大きな問題があろうかと思う。この点欧米では、日本でいう中学校・高等学校の段階で文学を学ぶ際に常に「演じる」という行為で表現しつつ理解し、理解したものを表現して腑に落とすような学習方法が採られる。これが日本では多く「傍線部分の登場人物の心情は?」という試験問題となり、理屈と文字上で考える学習となる。こうした文学教育における学習活動の違いにも、自らは「暑苦しく演じない」としてあくまで他人事として文学を享受する傾向が見える。だが詩歌でも小説でも、「当事者の立場になる」ことでしか真の理解には至らない。少なくとも映画などを観る時に、あなたは登場人物の誰かに同化して映像世界を生きてはいないだろうか。
感染状況も横這いと言ったらよいか?対策を十分に取りながら、今月20日に開催のリーディング劇の稽古を行なっている。台本上、多くの場面に出演するわけではないが、鍵を握る場面を与えていただいているだけに集中した時間となる。振り返れば、幼稚園の際の学芸会で「お家」の役をもらったことを思い出す。「待ってよ待ってよ待ってよね〜。ぼ〜くもいっしょにいきますよ〜」と歌を唄うように、その家に住む人などが楽しい場に向かうのを「お家」も追いかけるという役と台詞であった。小学校3年生ぐらいになると学級のクリスマス会などでグループごとに出し物をやったのだが、「加藤茶風の銀行員」を好演した記憶がある。ややとぼけた銀行員役で、強盗に襲われた銀行で僕が防犯ベルならぬ「ちょっとだけよ」の音楽を掛けると強盗一味も「あのポーズ」を始めてその間に警察がやってきて一網打尽にするというストーリーであった。残念ながら中高では「演じる」機会に恵まれなかったが、高校部活の器械体操では、まさに「演技」を日々練習したわけである。さていよいよ今回のリーディング劇の稽古も、今週は大詰めを迎える。
「牧水」を演じて短歌の読みは変わるだろうか?
短歌朗詠をいくつかのパターンで織り込んだ演技
誰しもが持つ「もうひとりの自分」を十分に楽しみたい。
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