ほんのわずかな縁の交差点
2022-02-03
家を出る時に気になる消灯などなぜ?このタイミングしかないところで逢える人
長い人生を考えてもそんな縁のある人が
僕が私立中学生の時のこと、毎朝学校まで15分の道のりを一人で歩いていた。ちょうどその中間地点を過ぎたあたりで、その地域の公立中学校へ通う同じ歳ぐらいの女子中学生に顔を合わせることが頻繁になった。僕が歩く直線の大通りへ脇道から彼女は出てくる、大通りに出るとこちらに向かって歩んで来るので、次第にお互いが近づいて一瞬にしてすれ違う。その数秒から最大20〜30秒に出逢うことのできる彼女を、僕は次第に好きになってしまった。それからというもの、彼女のことをなるべく長い時間に及び見ていられるように、家を出る時間を厳格に定めた。今でも覚えている「7時47分」がその時刻だ。当時としては高級なテレビにデジタル時計が埋め込まれていたが、下2桁が「7」に変わるとリビング・ダイニングをから1階に降りて靴を履き、玄関からその「出逢い」へ向けて歩み出す。歩めば歩調を一定に保つことを心掛け、渡るべき信号機会を逃さずに道路を横断した。次第に通過地点のラップタイムを自覚するようになって、自らの歩みのペースが順調かどうかを確かめるようになった。極めて大きな通りを渡る時刻、親しい牛乳屋さんが配達から帰っているので挨拶を交わす時刻、小さくわずかな路地の歩行者用信号を無視しないために点滅で走ることもあった。このように毎日、同時刻にまったく同じ位置を歩いていられるように細心の注意を払っていた。
そんな努力が結局は実を結ぶこともなく、いつしか僕の中学生時代は終わった。当時は野球部に夢中だったので時間もなく、色恋沙汰は禁ずべきなどと思う節もあった。それでも何度か彼女への手紙をしたためてポケットに入れていたと記憶するが、結局は手渡すことは出来なかった。今思えば、彼女の雰囲気は髪はショートカットながら妻に似ている。義実家で妻が小学生の頃の映像を観たことがあるが、まさに当時の彼女と面影が重なった。あの頃の恋はあの頃のままに言葉を交わすこともなく終わったが、きっと将来への輝く啓示であったのかもしれない。それにしても、意識した後は徹底的に時刻を管理する意識を持ったが、その僅か30秒以内の時間で彼女と逢えたあまりにも偶然な縁とは何なのだろうか?意図せずこれしかないタイミングで、人と出逢うということが日常の中でも時折ある。それこそが「縁」ということなのだろうか?僕が父の母校である私立中学校を選んだこと、通学手段として「徒歩」を選んだこと(実は入学当初はバスを利用していた)、そしてもし当時の彼女に手紙を渡していたらどうなっていたのだろう?偶然は必然、などともよく云われるが、「逢うべくして逢う」縁というものの機微をあらためて感じる。人生では、小さな偶然が大きな実りとなって返って来ることも少なくない。
「今此処」にいることのご縁
良くも悪くも多くの人々に出逢うご縁
まだまださらに多くの偶然を楽しんで生きてゆきたい。
- 関連記事
-
- 流れる雲を追いかけた7月 (2022/08/01)
- 風に吹かれてー運命と時宜のことなど (2022/07/11)
- ああ同級生ーいま何をしておこうか (2022/06/23)
- 親友が必要なわけ (2022/06/12)
- 小さな出逢いをくり返すこと (2022/05/24)
- 新しい未来をさがす邂逅 (2022/04/02)
- 義理を超える君のふるさと (2022/03/27)
- ほんのわずかな縁の交差点 (2022/02/03)
- 面白く楽しい国語教育を目指す理由 (2022/01/23)
- 小さな夢を叶えるー役者編 (2022/01/18)
- 贈り物の向こう側 (2021/12/23)
- 髪の縁も40年の親友 (2021/11/15)
- 発想の温床ーリアルを思い出す (2021/11/13)
- 親友とはどんな友だろうか? (2021/10/31)
- 再び記憶の刻まれ方を考える (2021/10/27)
スポンサーサイト
tag :